平将門
幸田露伴

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)千鍾《せんしよう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)小次郎|将門《まさかど》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+卒」、第3水準1−15−7]

 [#…]:返り点
 (例)忿怨不[#レ]少

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)一[#(ト)]合戦

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)たう/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 千鍾《せんしよう》の酒も少く、一句の言も多いといふことがある。受授が情を異にし※[#「口+卒」、第3水準1−15−7]啄《そつたく》が機に違《たが》へば、何も彼《か》もおもしろく無くつて、其れも是もまづいことになる。だから大抵の事は黙つてゐるに越したことは無い、大抵の文は書かぬが優《まさ》つてゐる。また大抵の事は聴かぬがよい、大抵の書は読まぬがよい。何も申《さる》の歳だからとて、視ざる聴かざる言はざるを尚《たつと》ぶわけでは無いが、嚢《なう》を括《くゝ》れば咎《とが》無しといふのは古《いにしへ》からの通り文句である。酒を飲んで酒に飲まれるといふことを何処かの小父さんに教へられたことがあるが、書を読んで書に読まれるなどは、酒に飲まれたよりも詰らない話だ。人を飲むほどの酒はイヤにアルコホルの強い奴で、人を読むほどの書も性《たち》がよろしくないのだらう。そんなものを書いて貰はなくてもよいから、そんなものを読んでやらなくてもよい理屈で、「一枚ぬげば肩がはら無い」世をあつさりと春風の中で遊んで暮らせるものを、下らない文字といふものに交渉をもつて、書いたり読んだり読ませたり、挙句《あげく》の果には読まれたりして、それが人文進歩の道程の、何のとは、はてあり難いことではあるが、どうも大抵の書は読まぬがよい、大抵の文は書かぬがよい。酒をつくらず酒飲まずなら、「下戸やすらかに睡る春の夜」で、天下太平、愚痴無智の尼入道となつて、あかつきのむく起きに南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》でも吐出した方が洒落《しやれ》てゐるらしい。何かの因果で、宿債《しゆくさい》未《いま》だ了《れう》せずとやらでもある、か毛武《まうぶ》総常《そうじやう》の水の上に度※[#二の字点、1−2−22]遊んだ篷底《はうてい》の夢の余りによしなしごとを書きつけはしたが、もとより人を酔はさう意《こゝろ》も無い、書かずともと思つてゐるほどだから、読まずともとも思つてゐる。たゞ宿酔《しゆくすゐ》猶《なほ》残つて眼の中がむづゝく人もあらば、羅山が詩にした大河の水ほど淡いものだから、却《かへ》つて胃熱を洗ふぐらゐのことはあらうか。飲むも飲まぬも読むも読まぬも、人※[#二の字点、1−2−22]の勝手で、刀根《とね》の川波いつもさらつく同様、紙に鉛筆のあたり傍題《はうだい》。
 六人箱を枕の夢に、そも我こそは桓武《くわんむ》天皇の後胤《こういん》に鎮守府将軍|良将《よしまさ》が子、相馬の小次郎|将門《まさかど》なれ、承平天慶のむかしの恨《うら》み、利根の川水日夜に流れて滔※[#二の字点、1−2−22]《たう/\》汨※[#二の字点、1−2−22]《ゐつ/\》千古|経《ふ》れども未だ一念の痕《あと》を洗はねば、※[#「にんべん+爾」、第3水準1−14−45]《なんぢ》に欝懐の委曲を語りて、修羅《しゆら》の苦因を晴るけんとぞ思ふ、と大《おほ》ドロ/\で現はれ出た訳でも何でも無いが、一体将門は気の毒な人である。大日本史には叛臣伝に出されて、日本はじまつて以来の不埒者《ふらちもの》に扱はれてゐるが、ほんとに悪《にく》むべき窺※[#「穴かんむり/兪」、第4水準2−83−17]《きゆ》の心をいだいたものであらうか。それとも勢《いきほひ》に駆られ情に激して、水は静かなれども風之を狂はせば巨浪怒つて騰《あが》つて天を拍《う》つに至つたのだらうか。先づそこから出立して考へて見ることを敢《あへ》てしないで、いきなり幸島《さじま》の偽闕《ぎけつ》、平親王呼はり、といふところから不届至極のしれ者とされゝば、一言も無いには定まつて居るが、事跡からのみ論じて心理を問は無いのは、乾燥派史家の安全な遣り方であるにせよ、情無いことであつて、今日の裁判には少し潤《うるほ》ひがあつて宜い訳だ。そこで自然と古来の史書雑籍を読んで、それに読まれてしまつた人で無い者の間には、不服を称《とな》ふる者も出て来て、現に明治年間には大審院、控訴院、宮内省等に対して申理を求めんとした人さへあつたほどである。然無《さな》くても古より今に至るまで、関東諸国の民、あすこ
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