るべくも無い、同じくば阪東を併《あは》せて取つて、世の気色を見んには如《し》かじと云ひ出すと、如何《いか》にも然様《さう》だ、と合点して終《しま》つた。興世王は実に好《い》い居候だ。親分をもり立てゝ大きくしようと心掛けたのだ。天井が高くなければ頭を聳《そび》えさせる訳には行かない。蔭で親分を悪く言ひながら、台所で偸《ぬす》み酒をするやうな居候とは少し違つて居た。併《しか》し此の居候のお蔭で将門は段※[#二の字点、1−2−22]罪を大きくした。興世王の言を聞くと、もとより焔硝《えんせう》は沢山《たくさん》に籠《こも》つて居た大筒《おほづゝ》だから、口火がついては容赦《ようしや》は無い。ウム、如何にも、いやしくも将門、刹帝利《さつていり》の苗裔《べうえい》三世の末葉である、事を挙《あ》ぐるもいはれ無しとはいふ可からず、いで先づ掌《たなそこ》に八箇国を握つて腰に万民を附けん、と大きく出た。かう出るだらうと思つて、そこで性に合つて居た興世王だから、イヨー親分、と喜んで働き出した。藤原の玄明や文室《ぶんや》の好立等のいきり立つたことも言ふ迄は無い。ソレッといふので下野国へと押出した。馬を駈けさせては馬場所《うまばしよ》の士《さむらひ》だ。将門が猛威を張つたのは、大小の差こそあれ大元《だいげん》が猛威を振《ふる》つたのと同じく騎隊を駆使したためで、古代に於ては汽車汽船自働車飛行機のある訳では無いから、驍勇な騎士を用ゐれば、其の速力や負担力《ふたんりよく》に於て歩兵に陪※[#「くさかんむり/徙」、第4水準2−86−65]《ばいし》するから、兵力は個数に於て少くて実量に於て多いことになる。下総は延喜式で左馬寮《さまれう》御牧貢馬地《みまきこうばち》として、信濃上野甲斐武蔵の下に在るやうに見えるが、兵部省《ひやうぶしやう》諸国馬牛|牧式《ぼくしき》を見ると、高津《たかつ》牧、大結牧、本島《もとじま》牧、長州牧など、沢山な牧《まき》があつて、兵部省へ貢馬《こうば》したものである。鎌倉時代足利時代から徳川時代へかけて、地勢上奥羽と同じく産馬地として鳴つて居る。特《こと》に将門は武人、此の牧場多き地に生長して居れば、十分に馬政にも注意し、騎隊の利をも用ゐるに怠らなかつたらう。
天慶の二年十一月二十一日に常陸を打従へて、すぐ其の翌月の十一日出発した。馬は竜の如く、人は雲の如く、勇威|凛※[
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