としてゐる、かゝる世の中に腕節《うでふし》の強い者の腕が鳴らずに居られよう歟《か》。此の世の中の表裏を看《み》て取つて、構ふものか、といふ腹になつて居る者は決して少くは無く、悪平等や撥無《はつむ》邪正の感情に不知不識《しらずしらず》陥《おちい》つて居た者も所在にあつたらう。将門が恰《あたか》も水滸伝《すゐこでん》中の豪傑が危い目に度※[#二の字点、1−2−22]|逢《あ》つて終《つひ》に官に抗し威を張るやうな徑路を取つたのも、考へれば考へどころはある。特《こと》に長い間引続いた私闘の敵方|荷担人《かたうど》の維幾が向ふへまはつて互に正面からぶつかつたのだから堪らない。此方が勝たなければ彼方が勝ち、彼方が負けなければ此方が負け、下手にまごつけば前の降間木につぐんだ時のやうな目に遇《あ》ふのだらう。玄明をかくまつた行懸《ゆきがゝ》りばかりでは無い、自分の頸《くび》にも縄の一端はかゝつてゐるものだから、向ふの頸にも縄の一端をかづかせて頸骨の強さくらべの頸引《くびひき》をして、そして敵をのめらせて敲《たゝ》きつけたのだ。常陸下総といへば人気はどちらも阪東|気質《かたぎ》で、山城大和のやうに柔らかなところでは無い。野山に生《は》へる杉の樹や松の樹までが、常陸ッ木下総ッ木といへば、大工《だいく》さんが今も顔をしかめる位で、後年の長脇差《ながわきざし》の侠客も大抵《たいてい》利根川沿岸で血の雨を降らせあつてゐるのだ。神道《しんだう》徳次は小貝川の傍《そば》、飯岡《いひをか》の助五郎、笹川の繁蔵、銚子《てうし》の五郎蔵と、数へ立つたら、指がくたびれる程だ。元来が斯様《かう》いふ土地なので、源平時分でも徳川時分でも変りは無いから、平安朝時代でも異《こと》なつては居ないらしい。現に将門の叔父の村岡五郎の孫の上総介忠常も、武蔵|押領使《あふりやうし》、日本将軍と威張り出して、長元年間には上総下総安房を切従へ、朝廷の兵を引受けて二年も戦ひ、これも叛臣伝中の人物となつてゐる。かういふ土地、かういふ時勢、かういふ思潮、かういふ内情、かういふ行懸《ゆきがゝり》り、興世王や玄明のやうなかういふ手下、とう/\火事は大きな風に煽《あふ》られて大きな燃えくさに甚《はなは》だしい焔《ほのほ》を揚《あ》げるに至つた。もういけない。将門は毒酒に酔つた。興世王は将門に対《むか》つて、一国を取るも罪は赦《ゆる》さ
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