条、こゝに至つては既に遣《や》り過ぎた。大親分も宜《よ》いけれども、奉行《ぶぎやう》や代官を相手にして談判をした末、向ふが承知せぬのを、此奴《こやつ》めといふので生捕りにして、役宅《やくたく》を焚き、分捕りをして還《かへ》つたといふのでは、余り強過ぎる。
玄明の事の起らぬ前、官符があるのであるから、将門が微力であるか維幾が猛威を有してゐるならば、将門は先づ維幾のために促《うなが》されて都へ出て、糺問《きうもん》されねばならぬ筈の身である。それが有つたからといふのも一つの事情か知らぬが、又貞盛縁類といふことも一ツの理由か知らぬが、又打つてかゝつて来たからといふのも一の所以《いはれ》か知らぬが、常陸介を生捕り国庁を荒し、掠奪焚焼《りやくだつふんせう》を敢てし、言はず語らず一国を掌握《しやうあく》したのは、相馬小次郎も図に乗つて暴《あば》れ過ぎた。裏面の情は問ふに及ばず、表面の事は乱賊の所行だ。大小は違ふが此類の事の諸国にあつたのは時代的の一現象であつたに疑無いけれど、これでは叛意が有る無いにかゝはらず、大盗の所為、又は暴挙といふべきものである。今で云へば県庁を襲撃し、県令を生擒《いけどり》し、国庫に入る可《べ》き財物を掠奪したのに当るから、心を天位に掛けぬまでも大罪に相違無い。将門は玄明、興世王なんどの遣口《やりくち》を大規模にしたのである。将門|猶未《なほいま》だ僣《せん》せずといへども、既《すで》に叛したのである。純友の暴発も蓋《けだ》し此様《かう》いふ調子なのであつたらう。延喜年間に盗の為に殺された前安芸守《さきのあきのかみ》伴光行、飛騨守《ひだのかみ》藤原辰忠、上野介《かうづけのすけ》藤原厚載、武蔵守《むさしのかみ》高向利春などいふものも、蓋《けだ》し維幾が生擒《いけどり》されたやうな状態であつたらう。孔孟《こうまう》の道は尊ばれたやうでも、実は文章詩賦が流行《はや》つたのみで、仏教は尊崇されたやうでも、実は現世|祈祷《きたう》のみ盛んで、事実に於て神祠巫覡《しんしふげき》の徒と妥協《だけふ》を遂げ、貴族に迎合《げいがふ》し、甚《はなはだ》しく平等の思想に欠け、人は恋愛の奴隷、虚栄の従僕となつて納まり返り、大臣からしてが賭《かけ》をして他《ひと》の妻を取るほど博奕《ばくち》思想は行はれ、官吏は唯《ただ》民に対する誅求《ちゆうきう》と上に対する阿諛《あゆ》とを事
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