のやうな調子で世に立つて居た。武蔵の騒がしいことを聞くと、武芝は近親では無いが、一つ扱つてやらう、といふ好意で郎等《らうどう》を率《したが》へて武蔵へ赴《おもむ》いた。武芝は喜んで本末を語り、将門と共に府に向つた。興世王と経基とは恰《あたか》も狭服山に在つたが、興世王だけは既《すで》に府に在《あ》るに会ひ、将門は興世王と武芝とを和解せしめ、府衙《ふが》で各※[#二の字点、1−2−22]数杯を傾けて居つたが、経基は未だ山北に在つた。其中武芝の従兵等は丁度経基の営所を囲んだやうになつた。経基は仲悪くして敵の如き思ひをなしてゐる武芝の従兵等が自分の営所を囲んだのを見て、たゞちに逃《のが》れ去つてしまつて、将門の言によりて武芝興世王等が和して自分一人を殺さうとするのであると合点した。そこで将門興世王を大《おほい》に恨んで、京に馳せ上つて、将門興世王謀反の企《くはだて》を致し居る由を太政官に訴へた。六孫王の言であるから忽ち信ぜられた。将門が兵を動かして威を奮つてゐることは、既に源護、平良兼、平貞盛等の訴《うつたへ》によりて、かねて知れて居るところへ、経基が此言によつて、今までのさま/″\の事は濃い陰影をなして、新らしい非常事態をクッキリと浮みあらはした。
 将門の方は和解の事|画餅《ぐわへい》に属して、おもしろくも無く石井に帰つたが、三月九日の経基の讒奏《ざんそう》は、自分に取つて一方《ひとかた》ならぬ運命の転換を齎《もた》らして居るとも知る由《よし》無くて居た。都ではかねてより阪東が騒がしかつた上に愈※[#二の字点、1−2−22]《いよ/\》謀反といふことであるから、容易ならぬ事と公卿《くぎやう》諸司の詮議に上つたことであらう。同月二十五日、太政大臣忠平から、中宮少《ちゆうぐうせう》進多治《しんたぢ》真人《まびと》助真《すけざね》に事の実否を挙ぐべき由の教書を寄せ、将門を責めた。将門も謀反とあつては驚いたことであらうが、たとひ驕倣《けうがう》にせよ実際まだ謀反をしたのでは無いから、常陸下総下毛武蔵上毛五箇国の解文《げもん》を取つて、謀反の事の無実の由を、五月二日を以て申出た。余国は知らず、常陸から此の解文は出しさうも無いことであつた。少くとも常陸では、将門謀反の由の言を幸ひとして、虚妄《きよまう》にせよ将門を誣《し》ひて陥《おとしい》れさうなところである。貞盛の姑夫《をばむ
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