あらう。高望王が上総介、六孫王が武蔵介、およそかゝる身分の人※[#二の字点、1−2−22]がかゝる官に任ぜられたのは当時の習《ならひ》であるから、興世王も蓋《けだ》し然様《さう》いふ人と考へて失当《しつたう》でもあるまい。其頃桓武天皇様の御子|万多《まんた》親王の御子の正躬《まさみ》王の御後には、住世《すみよ》、基世《もとよ》、助世、尚世《ひさよ》、などいふ方※[#二の字点、1−2−22]があり、又正躬王御弟には保世《やすよ》、継世《つぐよ》、家世など皆世の字のついた方が沢山《たくさん》あり、又桓武天皇様の御子仲野親王の御子にも茂世、輔世《すけよ》、季世《すゑよ》など世のついた方※[#二の字点、1−2−22]が沢山に御在《おいで》であるところから推《お》して考へると、興世王は或は前掲二親王の中のいづれかの後であつたかとも思へるが、系譜で見出さぬ以上は妄測《まうそく》は力が無い。たゞ時代が丁度相応するので或はと思ふのである。日本外史や日本史で見ると、いきなり「兇険にして乱を好む」とあつて、何となく熊坂|長範《ちやうはん》か何ぞのやうに思へるが、何様《どう》いふものであらうか。扨《さて》此の興世王と経基とは、共に我《が》の強い勢《いきほひ》の猛《さか》しい人であつたと見え、前例では正任未だ到《いた》らざるの間は部に入る事を得ざるのであるのに、推《お》して部に入つて検視しようとした。武芝は年来公務に恪勤《かくきん》して上下《しやうか》の噂も好いものであつたが、前例を申して之を拒《こば》んだ。ところが、郡司の分際《ぶんざい》で無礼千万であると、兵力づくで強《し》ひて入部し、国内を凋弊《てうへい》し、人民を損耗《そんかう》せしめんとした。武芝は敵せないから逃げ匿《かく》れると、武芝の私物《しぶつ》まで検封してしまつた。で、武芝は返還を逼《せま》ると、却《かへ》つて干戈《かんくわ》の備《そなへ》をして頑《ぐわん》として聴かず、暴を以て傲つた。是によつて国書生等は不治悔過《ふぢくわいくわ》の一巻を作つて庁前に遺《のこ》し、興世王等を謗《そし》り、国郡に其非違を分明にしたから、武蔵一国は大に不穏を呈した。そして経基と興世王ともまた必らずしも睦《むつ》まじくは無く、様※[#二の字点、1−2−22]なことが隣国下総に聴えた。将門は国の守でも何でも無いが、今は勢威おのづから生じて、大親分
前へ 次へ
全49ページ中26ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング