−22]《あう/\》として楽まず、其後は何も仕出《しいだ》し得ず、翌年天慶二年の六月上旬病死して終《しま》つた。子春丸は事あらはれて、不意討の日から幾程も無く捕へられて殺されてしまつた。
 突騎襲撃の不成功に終つた翌年の春、良兼は手を出すことも出来無くなつてゐるし、貞盛も為すこと無く居ねばならぬので、かくては果てじと、貞盛は京|上《のぼ》りを企てた。都へ行つて将門の横暴を訴へ、天威を藉《か》りてこれを亡《ほろ》ぼさうといふのである。将門はこれを覚《さと》つて、貞盛に兎角《とかく》云ひこしらへさせては面倒であると、急に百余騎を率《ひき》ゐて追駈けた。二月の二十九日、山道を心がけた貞盛に、信濃《しなの》の小県《ちひさがた》の国分寺《こくぶじ》の辺で追ひついて戦つた。貞盛も思ひ設けぬでは無かつたから防ぎ箭《や》を射つた。貞盛方の佗田真樹は戦死し、将門方の文屋好立《ぶんやのよしたつ》は負傷したが助かつた。貞盛は辛《から》くも逃《のが》れて、遂《つひ》に京に到《いた》り、将門暴威を振ふの始終を申立てた。此歳五月改元、天慶元年となつて、其の六月、朝廷より将門を召すの符を得て常陸に帰り、常陸介藤原|維幾《これちか》の手から将門に渡した。将門は符を得ても命を奉じ無かつた。維幾は貞盛の叔母婿《をばむこ》であつた。
 貞盛が京上りをした翌天慶二年の事である。武蔵の国にも紛擾《ふんぜう》が生じた。これも当時の地方に於て綱紀の漸《やうや》く弛《ゆる》んだことを証拠立てるものであるが、それは武蔵権守興世王と、武蔵介経基と、足立郡司判官武芝とが葛藤《かつとう》を結んで解けぬことであつた。武芝は武蔵国造《むさしのくにのみやつこ》の後で、足立《あだち》埼玉《さいたま》二郡は国中で早く開けたところであり、それから漸く人烟《じんえん》多くなつて、奥羽への官道の多摩《たま》郡中の今の府中のあるところに庁が出来たのであるが、武芝は旧家であつて、累代の恩威を積んでゐたから、当時中※[#二の字点、1−2−22]勢力のあつたものであらう、そこへ新《あらた》に権守《ごんのかみ》になつた興世王と新に介《すけ》になつた経基とが来た。経基は清和源氏の祖で六孫王其人である。興世王とは如何なる人であるか、古より誰も余り言はぬが、既に王といはれて居り、又経基との地位の関係から考へて見ても、帝系に出でゝ二代目位か三代目位の人で
前へ 次へ
全49ページ中25ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング