》るとは言へ、多勢の敵に対抗して居られるといふものは、勇悍《ゆうかん》である故のみでは無い、蓋《けだ》し人の同情を得てゐたからであつたらう。然無《さな》くば四方から圧逼《あつぱく》せられずには済まぬ訳である。
 良兼は何様《どう》かして勝を得ようとしても、尋常《じんじやう》の勝負では勝を取ることが難かつた。そこで便宜《べんぎ》を伺《うかゞ》ひ巧計を以て事を済《な》さうと考へた。怠《おこた》り無く偵察《ていさつ》してゐると、丁度将門の雑人《ざふにん》に支部《はせつかべ》子春丸といふものがあつて、常陸の石田の民家に恋中《こひなか》の女をもつて居るので、時※[#二の字点、1−2−22]其許へ通ふことを聞出した。そこで子春丸をつかまへて、絹を与へたり賞与を約束したりして、将門の営の勝手を案内させることにした。将門は此頃石井に居た。石井は「いはゐ」と読むので、今の岩井が即《すなは》ちそれだ。子春丸は恋と慾とに心を取られ、良兼の意に従つて、主人の営所の勝手を悉《こと/″\》く良兼の士に教へた。良兼はほくそ笑《ゑ》んで、手腕のある者八十余騎を択《えら》んで、ひそ/\と不意打をかける支度をさせた。十二月の十四日の夕に良兼の手の者は発して、首尾よく敵地に突入し、風の如くに進んで石井の営に斫入《きりい》つた。将門の士は十人にも足らなかつたが、敵が襲ふのを注進した者があつて、急に起つて防ぎ戦つた。将門も奮闘《ふんとう》した。良兼の上兵|多治良利《たぢのよしとし》は一挙に敵を屠《ほふ》らんと努力したが、運|拙《つたな》く射殺《いころ》されたので、寄手は却《かへ》つて散※[#二の字点、1−2−22]になつて、命を落す者四十余人、可なり手痛き戦はしたが、敵地に踏込むほどの強い武者共が随分巧みに、うま/\近づいたにもかゝはらず、此の突騎襲撃も成功しなかつた。双方が精鋭|驍勇《げうゆう》、死物狂ひを極《きは》め尽した活動写真的の此の華※[#二の字点、1−2−22]しい騎馬戦も、将門方の一騎士が結城寺の前で敵が不意打に来たなと悟つて、良兼方の騎士の後から尾行《びかう》して居て、鴨橋《かもはし》(今の結城《ゆふき》郡|新宿《しんじゆく》村のかま橋)から急に駈抜《かけぬ》けて注進したため、危くも将門は勝を得てしまつた。良兼は此の失敗に多く勇士を失ひ、気屈して、勢《いきほひ》衰へ、怏※[#二の字点、1−2
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