にも此所にも将門の霊を祀《まつ》つて、隠然として其の所謂《いはゆる》天位の覬覦《きゆ》者《しや》たる不届者に同情し、之を愛敬してゐることを事実に示してゐる。此等は抑※[#二の字点、1−2−22]《そも/\》何に胚胎《はいたい》してゐるのであらうか、又|抑《そも》何を語つてゐるのだらうか。たゞ其の驍勇《げうゆう》慓悍《へうかん》をしのぶためのみならば、然程《さほど》にはなるまいでは無いか。考へどころは十二分にある。
心理から事跡を曲解するのは不都合であるが、事跡から心理を即断するのも不都合である。まして事跡から心理を即断して、そして事実を捏造《ねつざう》し出すに至つては、愈※[#二の字点、1−2−22]《いよ/\》以て不都合である。日本外史はおもしろい書であるが、それに拠《よ》ると、将門が在京の日に比叡《ひえい》の山頂に藤原|純友《すみとも》と共に立つて皇居を俯瞰《ふかん》して、我は王族なり、当《まさ》に天子となるべし、卿は藤原氏なり、関白となるべし、と約束したとある。これは神皇正統記やなぞに拠《よ》つたのであるが、これでは将門は飛んでも無い純粋の謀反人《むほんにん》で、其罪逃るゝよしも無い者である。然しさういふ事が有り得るものであらうか。楚《そ》の項羽《かうう》や漢の高祖が未だ事を挙げざる前、秦《しん》の始皇帝の行列を観て、項羽は取つて以て代るべしと言ひ、高祖は大丈夫|応《まさ》に是の如くなるべしと言つたといふ、其の史記の記事から化けて出たやうなことだ。二人の言ですら、性格描写として看《み》れば非常に巧妙であるが、事実としては、史記に酔はぬ限は受取れない。黄石公を実在の人として受取るほどに読まれてしまへば、二人の言を受取らうし、大鏡を信仰しきつて、正統記を有難がればそれまでだが、どうも史記の香がしてならない。丁度将門乱の時の朱雀帝頃は漢文学の研究の大に行はれた時で、天慶の二年十一月、天皇様が史記を左中弁藤原|在衡《ありひら》を侍読《じどく》として始めて読まれ、前帝|醍醐《だいご》天皇様は三善清行《みよしきよつら》を御相手に史記を読まれた事などがある。それは兎に角大日本史も山陽同様に此事を記してゐるが、大日本史の筆法は博《ひろ》く采《と》ることはこれ有り、精《くは》しく判ずることは未だしといふ遣り方である。で、織田|鷹洲《ようしう》などは頭から叡山※[#二の字点、1
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