−2−22]上の談を受取らない。清宮秀堅《せいみやひでかた》も受取らない。秀堅は鷹洲《ようしう》のやうに将門に同情してゐる人では無くて、「平賊の事、言ふに足らざる也、彼や鴟梟《しけう》之性を以て、豕蛇《しい》の勢に乗じ、肆然《しぜん》として自から新皇と称し、偽都を建て、偽官を置き、狂妄《きやうまう》ほとんど桓玄司馬倫の為《ゐ》に類す、宜《うべ》なるかな踵《くびす》を回《かへ》さずして誅《ちゆう》に伏するや」と云つて居るほどである。然し下瞰京師のことに就ては、「将門はもと検非違使佐《けびゐしのすけ》たらんことを求めて得ず、憤を懐《いだ》いて郷に帰り、遂に禍を首《はじ》むるのみ、後に興世《おきよ》を得て始めて僣称《せんしよう》す。猶《なほ》源頼朝の蛭《ひる》が島《しま》に在りしや、僅《わづか》に伊豆一国の主たらんことを願ひしも、大江広元を得るに及びて始めて天下を攘《ぬす》みしが如き也、正統記大鏡等、蓋《けだ》し其跡に就いて而して之を拡張せる也、故に採《と》らず」と云つてゐる。此言は心裏《しんり》を想ひやつて意を立てゝゐるのだから、此も亦|中《あた》ると中らざるとは別であるが、而も正統記等が其跡に就いて拡張したのであらうといふことは、一箭双※[#「蜩のつくり+鳥」、第3水準1−94−62]鵬《いつせんさうてう》を貫いてゐる。宮本|仲笏《ちゆうこつ》は、扶桑略記に「純友|遙《はるか》に将門|謀反《むほん》之由をきゝて亦乱逆を企つ」とあるのに照らして見れば、是れ将門と相約せるにあらざること明らかなりと云つてゐる。純友の南海を乱したのが同時であつたので、如何《いか》にも将門純友が合謀したことは、たとへば後の石田三成と上杉景勝とが合謀した如くに見え、そこで天子関白の分ちどりといふ談も起つたのであらう。純友は伊予掾《いよのじよう》で、承平年中に南海道に群盗の起つた時、紀淑人《きのよしひと》が伊予守で之を追捕した其の事を助けてゐたが、其中に賊の余党を誘つて自分も賊をはじめたのである。将門の事とはおのづから別途に属するので、将門の方は私闘――即ち常陸大掾《ひたちだいじよう》国香や前《さきの》常陸大掾|源護《みなもとのまもる》一族と闘つたことから引つゞいて、終《つひ》に天慶二年に至つて始めて私闘から乱賊に変じたのである。其間に将門は一旦上京して上申し、私闘の罪を赦《ゆる》されたことがある
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