カバン》さげて行《ゆき》かゝれば亭主《ていしゅ》案内するを堅く無用と止めながら御免なされと唐襖《からかみ》開きて初対面の挨拶《あいさつ》了《おわ》りお辰素性のあらまし岩沼子爵の昔今を語り、先頃《さきごろ》よりの礼厚く演《のべ》て子爵より礼の餽《おく》り物数々、金子《きんす》二百円、代筆ならぬ謝状、お辰が手紙を置列《おきなら》べてひたすら低頭平身すれば珠運少しむっとなり、文《ふみ》丈《だ》ケ受取りて其他には手も付《つけ》ず、先日の百両まで其処《そこ》に投出し顔しかめて。御持帰《おもちかえ》り下さい、面白からぬ御所置、珠運の為《し》た事を利を取ろう為《ため》の商法と思われてか片腹痛し、些許《ちとばかり》の尽力したるも岩沼令嬢の為にはあらず、お辰いとしと思うてばかりの事、夫《それ》より段々|馴染《なじむ》につけ、縁あればこそ力にもなりなられて互《たがい》に嬉敷《うれしく》心底打明け荷物の多きさえ厭《いと》う旅路の空に婚礼までして女房に持とうという間際になりて突然《だしぬけ》に引攫《ひきさら》い人の恋を夢にして貘《ばく》に食《くわ》せよという様《よう》な情《なさけ》なきなされ方、是はまあどうした訳と二三日は気抜《きぬけ》する程恨めしくは存じたれど、只今《ただいま》承れば御親子《ごしんし》の間柄、大切の娘御を私風情の賎《いやし》き者に嫁入《よめいら》してはと御家従《ごけらい》のあなたが御心配なすッて連《つれ》て行《ゆか》れたも御道理、決して私めが僣上《せんじょう》に岩沼子爵の御令嬢をどうのこうのとは申《もうし》ませぬから、金円品物は吃度《きっと》御持帰り下され、併《しか》しまざ/\と夫婦約束までしたあの花漬売《はなづけうり》は、心さえ変らねばどうしても女房に持つ覚悟、十二月に御嶽《おんたけ》の雪は消ゆる事もあれ此念《このおもい》は消《きえ》じ、アヽ否《いや》なのは岩沼令嬢、恋しいは花漬売と果《はて》は取乱《とりみだ》して男の述懐《じゅっかい》。爰《ここ》ぞ肝要、御主人の仰せ受《うけ》て来た所なり。よしや此恋|諏訪《すわ》の湖《うみ》の氷より堅くとも春風のぼや/\と説きやわらげ、凝りたる思《おもい》を水に流さし、後々の故障なき様にせではと田原は笑顔《えがお》あやしく作り上唇《うわくちびる》屡《しば》甞《なめ》ながら、それは一々至極の御道理、さりとて人間を二つにする事も出来ず、お辰様が再度《また》花漬売にならるゝ瀬も無《なか》るべければ、詰りあなたの無理な御望《おのぞみ》と云者《いうもの》、あなたも否《いや》なのは岩沼令嬢と仰せられて見ると、まさか推して子爵の婿になろうとの思召《おぼしめし》でも御座るまいが、夫婦約束までなさったとて婚礼の済《すみ》たるでもなし、お辰様も今の所ではあなたを恋しがって居らるゝ様子なれど、思想の発達せぬ生《なま》若い者の感情、追付《おっつけ》変って来るには相違ないと殿様の仰せ、行末は似つかわしい御縁を求めて何《いず》れかの貴族の若公《わかぎみ》を納《いれ》らるゝ御積り、是《これ》も人の親の心になって御考《おかんがえ》なされて見たら無理では無いと利発のあなたにはよく御了解《おわかり》で御座りましょう、箇様《かよう》申せばあなたとお辰様の情交《あいなか》を割《さ》く様にも聞えましょうが、花漬売としてこそあなたも約束をなされたれ、詰る所成就|覚束《おぼつか》なき因縁、男らしゅう思い切られたが双方《そのほう》の御為《おため》かと存じます、併《しか》しお辰様には大恩あるあなたを子爵も何でおろそかに思われましょう、されば是等《これら》の餽物《おくりもの》親御からなさるゝは至当の事、受取らぬと仰《おっしゃ》ったとて此儘《このまま》にはならず、どうか条理の立様《たつよう》御分別なされて、枉《まげ》ても枉《まげ》ても、御受納と舌《した》小賢《こざか》しく云迯《いいにげ》に東京へ帰ったやら、其後|音沙汰《おとさた》なし。さても浮世や、猛《たけ》き虎《とら》も樹《き》の上の猿《さる》には侮られて位置の懸隔を恨むらん、吾《われ》肩書に官爵あらば、あの田原の額に畳の跡深々と付《つけ》さし、恐惶謹言《きょうこうきんげん》させて子爵には一目置《いちもくおい》た挨拶《あいさつ》させ差詰《さしづめ》聟殿《むこどの》と大切がられべきを、四民同等の今日とて地下《じげ》と雲上《うんじょう》の等差《ちがい》口惜し、珠運を易《やす》く見積って何百円にもあれ何万円にもあれ札《さつ》で唇にかすがい膏打《こううつ》ような処置、遺恨千万、さりながら正四位《しょうしい》何の某《なにがし》とあって仏師彫刻師を聟《むこ》には為《し》たがらぬも無理ならぬ人情、是非もなけれど抑々《そもそも》仏師は光孝《こうこう》天皇|是忠《これただ》の親王等の系に出《いで》て定朝《じょうち
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