《ながめ》も、細口の花瓶に唯《ただ》二三輪の菊古流しおらしく彼が生《いけ》たるを賞《ほ》め、賞《ほめ》られて二人《ふたり》の微笑《ほほえみ》四畳半に籠《こも》りし時程は、今つくねんと影法師相手に独《ひとり》見る事の面白からず、栄華を誰《たれ》と共に、世も是迄《これまで》と思い切って後妻《のちぞい》を貰《もら》いもせず、さるにても其子|何処《どこ》ぞと種々《さまざま》尋ねたれど漸《ようや》くそなたを里に取りたる事ある嫗《ばば》より、信濃《しなの》の方へ行かれたという噂《うわさ》なりしと聞出《ききいだ》したる計《ばか》り、其筋の人に頼んでも何故《なにゆえ》か分らず、我《われ》外《ほか》に子なければ年老《としおい》る丈《だ》け愈《いよいよ》恋しく信州にのみ三人も家従《けらい》をやって捜《さが》させたるに、辛《から》くも田原が探し出《いだ》して七蔵《しちぞう》という悪者よりそなた貰《もら》い受けんとしたるに、如何《どう》いう訳か邪魔|入《いり》て間もなくそなたは珠運《しゅうん》とか云う詰《つま》らぬ男に、身を救われたる義理づくやら亀屋《かめや》の亭主の圧制やら、急に婚礼するというに、一旦《いったん》帰京《かえっ》て二度目にまた丁度《ちょうど》行き着《つき》たる田原が聞《きい》て狼狽《ろうばい》し、吾《わが》書捨《かきすて》て室香に紀念《かたみ》と遺《のこ》せし歌、多分そなたが知《しっ》て居るならんと手紙の末に書《かき》し頓智《とんち》に釣《つ》り出《いだ》し、それから無理に訳も聞かせず此処《ここ》まで連《つれ》て来たなれば定めし驚いたでもあろうが少しも恐るゝ事はなし、亀屋の方は又々田原をやって始末する程に是からは岩沼子爵の立派な娘、行儀学問も追々覚えさして天晴《あっぱれ》の婿《むこ》取り、初孫《ういまご》の顔でも見たら夢の中《うち》にそなたの母に逢《あ》っても云訳《いいわけ》があると今からもう嬉《うれし》くてならぬ、それにしても髪とりあげさせ、衣裳《いしょう》着かゆさすれば、先刻《さっき》内々戸の透《すき》から見たとは違って、是程までに美しいそなたを、今まで木綿|布子《ぬのこ》着せて置《おい》た親の耻《はずか》しさ、小間物屋も呼《よば》せたれば追付《おっつけ》来《くる》であろう、櫛《くし》簪《かんざし》何なりと好《すき》なのを取れ、着物も越後屋《えちごや》に望《のぞみ》次第|云付《いいつけ》さするから遠慮なくお霜《しも》を使《つか》え、あれはそなたの腰元だから先刻《さっき》の様《よう》に丁寧《ていねい》に辞義なんぞせずとよい、芝屋や名所も追々に見せましょ。舞踏会《ぶとうかい》や音楽会へも少し都風《みやこふう》が分って来たら連《つれ》て行《ゆき》ましょ。書物は読《よめ》るかえ、消息往来|庭訓《ていきん》までは習ったか、アヽ嬉しいぞ好々《よしよし》、学問も良い師匠を付《つけ》てさせようと、慈愛は尽《つき》ぬ長物語り、扨《さて》こそ珠運が望み通り、此《この》女菩薩《にょぼさつ》果報めでたくなり玉いしが、さりとては結構づくめ、是は何とした者。
[#改ページ]
第八 如是力《にょぜりき》
上 楞厳呪文《りょうごんじゅもん》の功も見えぬ愛慾《あいよく》
古風作者《こふうさくしゃ》の書《かき》そうな話し、味噌越《みそこし》提げて買物あるきせしあのお辰《たつ》が雲の上人《うえびと》岩沼《いわぬま》子爵《ししゃく》様《さま》の愛娘《まなむすめ》と聞《きい》て吉兵衛仰天し、扨《さて》こそ神も仏も御座る世じゃ、因果|覿面《てきめん》地ならしのよい所に蘿蔔《だいこ》は太りて、身持《みもち》のよい者に運の実がなる程理に叶《かなっ》た幸福と無上に有難がり嬉《うれ》しがり、一も二もなく田原の云事《いうこと》承知して、おのが勧めて婚姻さし懸《かけ》たは忘れたように何とも云わず物思わしげなる珠運《しゅうん》の腹《はら》聞《きか》ずとも知れてると万端|埒《らち》明け、貧女を令嬢といわるゝように取計《とりはから》いたる後、先日の百両|突戻《つきもど》して、吾《われ》当世の道理は知《しら》ねど此様《このよう》な気に入らぬ金受取る事|大嫌《だいきらい》なり、珠運様への百両は慥《たしか》に返したれど其人《そのひと》に礼もせぬ子爵から此《この》親爺《おやじ》が大枚《たいまい》の礼|貰《もらう》は煎豆《いりまめ》をまばらの歯で喰《く》えと云わるゝより有難迷惑、御返し申《もうし》ますと率直に云えば、否《いや》それは悪い合点《がてん》、一酷《いっこく》にそう云われずと子爵からの御志、是非|御取置《おとりおき》下され、珠運様には別に御礼を申《もうし》ますが姿の見えぬは御|立《たち》なされたか、ナニ奥の坐敷《ざしき》に。左様《さよう》なら一寸《ちょっと》と革嚢《
前へ
次へ
全27ページ中16ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング