いし》に鋒尖《きっさき》鋭く礪《と》ぎ上げ、頓《やが》て櫛《くし》の棟《むね》に何やら一日掛りに彫り付《つけ》、紙に包んでお辰|来《きた》らばどの様な顔するかと待ちかけしは、恋は知らずの粋様《すいさま》め、おかしき所業《しょぎょう》あてが外れて其晩吹雪|尚《なお》やまず、女の何としてあるかるべきや。されば流れざるに水の溜《たま》る如《ごと》く、逢《あ》わざるに思《おもい》は積りて愈《いよいよ》なつかしく、我は薄暗き部屋の中《うち》、煤《すす》びたれども天井の下、赤くはなりてもまだ破《や》れぬ畳の上に坐《ざ》し、去歳《こぞ》の春すが漏《もり》したるか怪しき汚染《しみ》は滝の糸を乱して画襖《えぶすま》の李白《りはく》の頭《かしら》に濺《そそ》げど、たて付《つけ》よければ身の毛|立《たつ》程の寒さを透間《すきま》に喞《かこ》ちもせず、兎《と》も角《かく》も安楽にして居るにさえ、うら寂しく自《おのずから》悲《かなしみ》を知るに、ふびんや少女《おとめ》の、あばら屋といえば天井も無《な》かるべく、屋根裏は柴《しば》焼《た》く煙りに塗られてあやしげに黒く光り、火口《ほくち》の如き煤は高山《こうざん》の樹《き》にかゝれる猿尾枷《さるおがせ》のようにさがりたる下に、あのしなやかなる黒髪|引詰《ひきつめ》に結うて、腸《はらわた》見えたるぼろ畳の上に、香露《こうろ》凝《こ》る半《なかば》に璧《たま》尚《なお》※[#「車+(而/大)」、第3水準1−92−46]《やわらか》な細軟《きゃしゃ》な身体《からだ》を厭《いと》いもせず、なよやかにおとなしく坐《すわ》りて居《い》る事か、人情なしの七蔵め、多分《おおかた》小鼻怒らし大胡坐《おおあぐら》かきて炉の傍《はた》に、アヽ、憎さげの顔見ゆる様な、藍格子《あいごうし》の大どてら着て、充分酒にも暖《あたたま》りながら分《ぶん》を知らねばまだ足らず、炉の隅《すみ》に転げて居る白鳥《はくちょう》徳利《どくり》の寐姿|忌※[#二の字点、1−2−22]《いまいま》しそうに睨《ね》めたる眼《め》をジロリと注ぎ、裁縫《しごと》に急がしき手を止《とめ》さして無理な吩附《いいつけ》、跡引き上戸の言葉は針、とが/\しきに胸を痛めて答うるお辰は薄着の寒さに慄《ふる》う歟《か》唇《くちびる》、それに用捨《ようしゃ》もあらき風、邪見に吹くを何防ぐべき骨|露《あらわ》れし壁|一重《ひとえ》、たるみの出来たる筵《むしろ》屏風《びょうぶ》、あるに甲斐《かい》なく世を経《ふ》れば貧には運も七分《しちぶ》凍《こお》りて三分《さんぶ》の未練を命に生《いき》るか、噫《ああ》と計《ばか》りに夢現《ゆめうつつ》分《わか》たず珠運は歎《たん》ずる時、雨戸に雪の音さら/\として、火は消《きえ》ざる炬燵《こたつ》に足の先|冷《つめた》かりき。
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    第五 如是作《にょぜさ》

      上 我を忘れて而生其心《にしょうごしん》

 よしや脊《せ》に暖《あたたか》ならずとも旭日《あさひ》きら/\とさしのぼりて山々の峰の雪に移りたる景色、眼《め》も眩《くら》む許《ばか》りの美しさ、物腥《ものぐさ》き西洋の塵《ちり》も此処《ここ》までは飛《とん》で来ず、清浄《しょうじょう》潔白|実《げ》に頼母敷《たのもしき》岐蘇路《きそじ》、日本国の古風残りて軒近く鳴く小鳥の声、是《これ》も神代を其儘《そのまま》と詰《つま》らぬ者《もの》をも面白く感ずるは、昨宵《ゆうべ》の嵐《あらし》去りて跡なく、雲の切れ目の所所、青空見ゆるに人の心の悠々とせし故なるべし。珠運《しゅうん》梅干渋茶に夢を拭《ぬぐ》い、朝|飯《はん》[#「飯」は底本では「飲」]平常《ふだん》より甘《うま》く食いて泥《どろ》を踏まぬ雪沓《ゆきぐつ》軽《かろ》く、飄々《ひょうひょう》と立出《たちいで》しが、折角|吾《わが》志《こころざし》を彫りし櫛《くし》与えざるも残念、家は宿の爺《おやじ》に聞《きき》て街道の傍《かたえ》を僅《わずか》折り曲りたる所と知れば、立ち寄りて窓からでも投込まんと段々行くに、果《はた》せる哉《かな》縦《もみ》の木高く聳《そび》えて外囲い大きく如何《いか》にも須原《すはら》の長者が昔の住居《すまい》と思わるゝ立派なる家の横手に、此頃《このごろ》の風吹き曲《ゆが》めたる荒屋《あばらや》あり。近付くまゝに中《うち》の様子を伺えば、寥然《ひっそり》として人のありとも想《おも》われず、是は不思議とやぶれ戸に耳を付《つけ》て聞けば竊々《ひそひそ》と※[#「口+耳」、第3水準1−14−94]《ささ》やくような音、愈《いよいよ》あやしく尚《なお》耳を澄《すま》せば啜《すす》り泣《なき》する女の声なり。さては邪見な七蔵《しちぞう》め、何事したるかと彼此《あちこち》さがして大きなる節《ふし》
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