の抜けたる所より覗《のぞ》けば、鬼か、悪魔か、言語同断、当世の摩利《まり》夫人とさえ此《この》珠運が尊く思いし女を、取って抑えて何者の仕業ぞ、酷《むご》らしき縄からげ、後《うしろ》の柱のそげ多きに手荒く縛《くく》し付け、薄汚なき手拭《てぬぐい》無遠慮に丹花《たんか》の唇を掩《おお》いし心無さ、元結《もとゆい》空にはじけて涙の雨の玉を貫く柳の髪|恨《うらみ》は長く垂れて顔にかゝり、衣《きぬ》引まくれ胸あらわに、膚《はだえ》は春の曙《あけぼの》の雪今や消《きえ》入らん計《ばか》り、見るから忽《たちま》ち肉動き肝《きも》躍って分別思案あらばこそ、雨戸|蹴《け》ひらき飛込《とびこん》で、人間の手の四五本なき事もどかしと急燥《いらつ》まで忙《いそがわ》しく、手拭を棄《す》て、縄を解き、懐中《ふところ》より櫛《くし》取り出《いだ》して乱れ髪|梳《す》けと渡しながら冷え凍《こお》りたる肢体《からだ》を痛ましく、思わず緊接《しっかり》抱《いだ》き寄せて、嘸《さぞ》や柱に脊中がと片手に摩《な》で擦《さ》するを、女あきれて兎角《とかく》の詞《ことば》はなく、ジッと此方《こなた》の顔を見つめらるゝにきまり悪くなって一《ひ》ト足離れ退《の》くとたん、其辺《そこら》の畳雪だらけにせし我沓《わがくつ》にハッと気が注《つ》き、訳《わけ》も分らず其《その》まゝ外へ逃げ出し、三間ばかり夢中に走れば雪に滑りてよろ/\/\、あわや膝《ひざ》突かんとしてドッコイ、是は仕《し》たり、蝙蝠傘《こうもりがさ》手荷物忘れたかと跡《あと》もどりする時、お辰《たつ》門口に来《きた》り袖《そで》を捉《とら》えて引くにふり切れず、今更余計な仕業したりと悔むにもあらず、恐るゝにもあらねど、一生に覚《おぼえ》なき異な心持するにうろつきて、土間に落散る木屑《きくず》なんぞの詰《つま》らぬ者に眼を注ぎ上《あが》り端《はな》に腰かければ、しとやかに下げたる頭《かしら》よくも挙げ得ず。あなたは亀屋《かめや》に御出《おいで》なされた御客様わたくしの難儀を見かねて御救《おすくい》下されたは真《まこと》にあり難けれど、到底《とても》遁《のが》れぬ不仕合《ふしあわせ》と身をあきらめては断念《あきらめ》なかった先程までの愚《おろか》が却《かえ》って口惜《くちおしゅ》う御座りまする、訳《わけ》も申さず斯《こ》う申しては定めて道理の分らぬ奴《やつ》めと御軽侮《おさげすみ》も耻《はずか》しゅうはござりまするし、御慈悲深ければこそ縄まで解《とい》て下さった方に御礼も能《よく》は致さず、無理な願《ねがい》を申すも真《まこと》に苦しゅうは御座りまするが、どうぞわたくしめを元の通りお縛りなされて下さりませと案の外《ほか》の言葉に珠運驚き、是《これ》は/\とんでもなき事、色々入り込んだ訳もあろうがさりとては強面《つれなき》御頼《おたの》み、縛った奴《やつ》を打《ぶ》てとでも云《い》うのならば痩腕《やせうで》に豆|計《ばかり》の力瘤《ちからこぶ》も出しましょうが、いとしゅうていとしゅうて、一日二晩|絶間《たえま》なく感心しつめて天晴《あっぱれ》菩薩《ぼさつ》と信仰して居る御前様《おまえさま》を、縛ることは赤旃檀《しゃくせんだん》に飴細工《あめざいく》の刀で彫《ほり》をするよりまだ難し、一昨日《おととい》の晩忘れて行かれたそれ/\その櫛を見ても合点《がてん》なされ、一体は亀屋の亭主に御前の身の上あらまし聞《きき》て、失礼ながら愍然《かわいそう》な事や、私《わたし》が神か仏ならば、斯《こう》もしてあげたい彼《ああ》もしてやり度《たい》と思いましたが、それも出来ねばせめては心計《こころばかり》、一日肩を凝らして漸《ようや》く其彫《そのほり》をしたも、若《もし》や御髪《おぐし》にさして下さらば一生に又なき名誉、嬉《うれ》しい事と態々《わざわざ》持参して来て見れば他《よそ》にならぬ今のありさま、出過《ですぎ》たかは知りませぬが堪忍がならで縄も手拭も取りましたが、悪いとあらば何とでも謝罪《あやま》りましょ。元の通りに縛れとはなさけなし、鬼と見て我を御頼《おたのみ》か、金輪《こんりん》奈落《ならく》其様《そのよう》な義は御免|蒙《こうむ》ると、心清き男の強く云うをお辰聞ながら、櫛を手にして見れば、ても美しく彫《ほり》に彫《ほっ》たり、厚《あつさ》は僅《わずか》に一分《いちぶ》に足らず、幅は漸《ようや》く二分|計《ばか》り、長さも左《さ》のみならざる棟《むね》に、一重の梅や八重桜、桃はまだしも、菊の花、薄荷《はっか》の花の眼《め》も及ばぬまで濃《こまか》きを浮き彫にして香《にお》う計《ばか》り、そも此人《このひと》は如何《いか》なればかゝる細工をする者ぞと思うに連れて瞳《ひとみ》は通い、竊《ひそか》に様子を伺えば、色黒からず、口元ゆるま
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