\と浮ぶお辰《たつ》の姿、首さし出《いだ》して眼《め》をひらけば花漬、閉《とず》ればおもかげ、是《これ》はどうじゃと呆《あき》れてまた候《ぞろ》眼をあけば花漬、アヽ是を見ればこそ浮世話も思いの種となって寝られざれ、明日は馬籠峠《まごめとうげ》越えて中津川《なかつがわ》迄《まで》行かんとするに、能《よ》く休までは叶《かな》わじと行燈《あんどん》吹き消し意《い》を静むるに、又しても其《その》美形、エヽ馬鹿《ばか》なと活《かっ》と見ひらき天井を睨《にら》む眼に、此《この》度《たび》は花漬なけれど、闇《やみ》はあやなしあやにくに梅の花の香《かおり》は箱を洩《も》れてする/\と枕《まくら》に通えば、何となくときめく心を種として咲《さき》も咲《さき》たり、桃の媚《こび》桜の色、さては薄荷《はっか》菊の花まで今|真盛《まっさか》りなるに、蜜《みつ》を吸わんと飛び来《きた》る蜂《はち》の羽音どこやらに聞ゆる如《ごと》く、耳さえいらぬ事に迷っては愚《おろか》なりと瞼《まぶた》堅《かた》く閉《と》じ、掻巻《かいまき》頭《こうべ》を蔽《おお》うに、さりとては怪《け》しからず麗《うるわ》しき幻《まぼろし》の花輪の中に愛矯《あいきょう》を湛《たた》えたるお辰、気高き計《ばか》りか後光|朦朧《もうろう》とさして白衣《びゃくえ》の観音、古人にも是《これ》程の彫《ほり》なしと好《すき》な道に慌惚《うっとり》となる時、物の響《ひびき》は冴《さ》ゆる冬の夜、台所に荒れ鼠《ねずみ》の騒ぎ、憎し、寝られぬ。
下 思いやるより増長の愛
裏付股引《うらつきももひき》に足を包みて頭巾《ずきん》深々とかつぎ、然《しか》も下には帽子かぶり、二重とんびの扣釼《ぼたん》惣掛《そうがけ》になし其上《そのうえ》首筋胴の周囲《まわり》、手拭《てぬぐい》にて動《ゆる》がぬ様《よう》縛り、鹿《しか》の皮の袴《はかま》に脚半《きゃはん》油断なく、足袋二枚はきて藁沓《わらぐつ》の爪《つま》先に唐辛子《とうがらし》三四本足を焼《やか》ぬ為《ため》押し入れ、毛皮の手甲《てっこう》して若《もし》もの時の助けに足橇《かんじき》まで脊中《せなか》に用意、充分してさえ此《この》大吹雪、容易の事にあらず、吼立《ほえたつ》る天津風《あまつかぜ》、山山鳴動して峰の雪、梢《こずえ》の雪、谷の雪、一斉に舞立つ折は一寸先見え難く、瞬間《またたくま》に路《みち》を埋《うず》め、脛《はぎ》を埋《うず》め、鼻の孔《あな》まで粉雪吹込んで水に溺《おぼ》れしよりまだ/\苦し、ましてや准備《ようい》おろかなる都の御《お》客様なんぞ命|惜《おし》くば御逗留《ごとうりゅう》なされと朴訥《ぼくとつ》は仁に近き親切。なるほど話し聞《きい》てさえ恐ろしければ珠運《しゅうん》別段急ぐ旅にもあらず。されば今日|丈《だけ》の厄介《やっかい》になりましょうと尻《しり》を炬燵《こたつ》に居《すえ》て、退屈を輪に吹く煙草《たばこ》のけぶり、ぼんやりとして其辺《そこら》見回せば端なく眼《め》につく柘植《つげ》のさし櫛《ぐし》。さては花漬売《はなづけうり》が心づかず落し行《ゆき》しかと手に取るとたん、早《は》や其人《そのひと》床《ゆか》しく、昨夕《ゆうべ》の亭主が物語今更のように、思い出されて、叔父《おじ》の憎きにつけ世のうらめしきに付け、何となく唯《ただ》お辰《たつ》可愛《かわい》く、おれが仏なら、七蔵《しちぞう》頓死《とんし》さして行衛《ゆくえ》しれぬ親にはめぐりあわせ、宮内省《くないしょう》よりは貞順善行の緑綬《りょくじゅ》紅綬紫綬、あり丈《たけ》の褒章《ほうしょう》頂かせ、小説家には其《その》あわれおもしろく書かせ、祐信《すけのぶ》長春《ちょうしゅん》等《ら》を呼び生《いか》して美しさ充分に写させ、そして日本一|大々尽《だいだいじん》の嫁にして、あの雑綴《つぎつぎ》の木綿着を綾羅《りょうら》錦繍《きんしゅう》に易《か》え、油気少きそゝけ髪に極《ごく》上々|正真伽羅栴檀《しょうじんきゃらせんだん》の油|付《つけ》させ、握飯《にぎりめし》ほどな珊瑚珠《さんごじゅ》に鉄火箸《かなひばし》ほどな黄金脚《きんあし》すげてさゝしてやりたいものを神通《じんつう》なき身の是非もなし、家財|売《うっ》て退《の》けて懐中にはまだ三百両|余《よ》あれど是《これ》は我身《わがみ》を立《たつ》る基《もと》、道中にも片足満足な草鞋《わらじ》は捨《すて》ぬくらい倹約《つましく》して居るに、絹絞《きぬしぼり》の半掛《はんがけ》一《ひ》トつたりとも空《あだ》に恵む事難し、さりながらあまりの慕わしさ、忘られぬ殊勝さ、かゝる善女《ぜんにょ》に結縁《けちえん》の良き方便もがな、噫《ああ》思い付《つい》たりと小行李《こごうり》とく/\小刀《こがたな》取出し小さき砥石《と
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