馬琴の小説とその当時の実社会
幸田露伴
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)思召《おぼしめし》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)山下|定包《さだかね》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「にんべん+鐶のつくり」、356−6]
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皆さん。浅学不才な私如き者が、皆さんから一場の講演をせよとの御求めを受けましたのは、実に私の光栄とするところでござります。しかし私は至って無器用な者でありまして、有益でもあり、かつ興味もあるというような、気のきいた事を提出致しまして、そして皆さんの思召《おぼしめし》に酬《むく》いる、というような巧なる事はうまく出来ませぬので、已むを得ず自分の方の圃《はたけ》のものをば、取り繕《つくろ》いもしませんで無造作に持出しまして、そして御免を蒙るという事に致すことにしました。ちょうど温かい心もちが無いのではありませんが、機転のきかない妻君が、たまたまの御客様に何か薦《すす》めたい献《たてまつ》りたいと思っても、工合よく思い当るものが無いので、仕方なしに裏庭の圃のジャガイモを塩ゆでにして、そして御菓子にして出しました、といったような格でありまして、まことに智恵の無い御はずかしい事でありますが、御勘弁を願います。
さてその智恵の無い談話の題目は「曲亭馬琴の小説とその当時の実社会」というのでございます。題の付けようが少し拙《まず》いか知れませんが、私の申し上げてみようというのは、その当時、即ち馬琴が生存して居た時代との関係が、どんな工合であろうかという点にあるのでございます。ただしかように申しますと、非常に広い問題になりまして、どうも一席の御話には尽す事が出来ないのでござりまする。馬琴が用いましたその小説中の言語と、当時の実際の言語とも一つの重要な関係点でありますれば、馬琴の描きました小説中の風俗習慣や儀式作法と、当時の実際の風俗習慣や儀式作法との関係も、また重要の一カ条でございますし、馬琴の小説中にあらわれて居りまする宗教上の信仰や俗間の普通思想と、当時の実際の士民男女の信仰や思想との関係もまた重要の一条件でございまする。その他曰く何、曰く何と相接触して居る関係点は非常に沢山あることでござりまするから、それらをいちいち遺漏無く申上げる事は甚だ困難の事で、かつまた一席の御話には不適当な事でございますから、ただ今はただ馬琴の小説中に現われて居りまする人物と当時の実社会の人物という一条について、御話を試みようと存じます。小説と社会との重要な関係点は、幾干《いくつ》も幾干も有るのでございまするが、小説中の人物と実社会の人物との関係と申す事は、取り分け重要であり、かつまた切実な点であることは申すまでもない事だと存じまするのでございます。
馬琴という人は、或る種類の人、ひと口に申しますれば通人《つうじん》がったり大人物がったりする人々には、余り賞されないのみならず、あるいはクサされる傾きさえある人でありますが、先ず日本の文学史上にはどうしても最高の地位を占めて居る人でございまして、十二分に尊敬すべき人だとは、十目十指の認めて居るところでございます。なるほど酸《す》いも甘いも咬《か》み分けたというような肌合の人には、馬琴の小説は野暮《やぼ》くさいでもありましょうし、また清い水も濁った水も併せて飲むというような大腹中《ふとっぱら》の人には、馬琴の小説はイヤに偏屈で、隅から隅まで尺度《ものさし》を当ててタチモノ庖丁《ぼうちょう》で裁ちきったようなのが面白くなくも見えましょうが、それはそれとして置いて、馬琴の大手腕大精力と、それから強烈な自己の道義心と混淆化合してしまった芸術上の意見、即ち勧善懲悪という事を主義にして数十年間を努力した芸術的良心の熱烈であった事は、どうしても人をして尊敬讃嘆の念を発せしめずには居らしめないだけの大文豪であります。かくの如き馬琴が書きましたるところの著述は、些細なものまでを勘定すれば百部二百部ではきかぬのでありますが、その中で髄脳であり延髄であり脊髄であるところの著述は、皆当時の実社会に対して直接な関係は有して居りませぬので、皆異なった時代――足利時代とか鎌倉時代とか大内氏頃とか、最も近くても数十年前の時代を舞台にして描いて居るのであります。ですから馬琴の小説中の人物は、無論直接には当時の実社会の人物とは関係が無いのでございます。もっとも馬琴も至って年の若かった頃は、直接に実社会の人物を描いて居りまして、いわゆる「洒落本《しゃれぼん》」という、小説にもならぬ位の程度のものを作って居ります。『猫じやらし』という一巻ものなどは即ちそれで、読ん
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