でみますると、本所《ほんじょ》辺の賤しい笑を売る婦人の上を描こうと試みて居るのでございます。しかしそれらは素《もと》より馬琴のためにこれを語るさえ余り気の毒な位の、至って些細な、下らぬものでありまして、名誉心と道義心との非常に強かった馬琴は、晩年に至りまして、これらの下らぬ類の著作を自分が試みたといわれるのを遺憾に思って、自らその書をもとめては焼き棄てたといい伝えられて居る程でございます。馬琴と相前後して居る作者には、山東京伝《さんとうきょうでん》であれ、式亭三馬《しきていさんば》であれ、十返舎一九《じっぺんしゃいっく》であれ、為永春水《ためながしゅんすい》であれ、直接に当時の実社会を描き写して居るものが沢山ありますが、馬琴においては、三勝《さんかつ》・半七《はんしち》を描きましてもお染《そめ》・久松《ひさまつ》を描きましても、それをかなり隔たった時にして書きまして、すべてに、これは過ぎた昔の事であるという過去と名のついた薄い白いレースか、薄青い紗のきれのようなものを被《か》けて置いて、それを通して読者に種々なる相を示して居るのでございます。御覧なさいまし、『八犬伝』は結城《ゆうき》合戦に筆を起して居ますから足利氏の中葉からです、『弓張月』は保元からですから源平時代、『朝夷巡島記《あさいなしまめぐりのき》』は鎌倉時代、『美少年録』は戦国時代です。『夢想兵衛胡蝶物語《むそうびょうえこちょうものがたり》』などは、その主人公こそは当時の人ですが、これはまたその描いてある世界がすべて非現実世界ですから、やはり直接には当時の実社会と交渉がきれて居りますのです。
 それで馬琴のその「過去と名のついたレース」を通して読者に種々の事相を示した小説を読んでみますと、その小説の中の柱たり棟《むなぎ》たる人物は、あるいは「親孝行」という美徳を人に擬《なぞら》えて現わしたようなものであったり、あるいは「忠義」という事を人にして現わしたようなものであったり、あるいは強くて情深くて侠気《おとこぎ》があって、美男で智恵があって、学問があって、先見の明があって、そして神明の加護があって、危険の時にはきっと助かるというようなものであったり、美女で智慮が深くて、武芸が出来て、名家の系統で、心術が端正で、というようなものであったりするので、当時の実社会のどこをさがしてもなかなか居りませぬ人物です。当時どころではありません。明治の聖代の今日だって、犬塚信乃《いぬつかしの》だの犬飼現八《いぬかいげんはち》だの、八郎御曹司為朝《はちろうおんぞうしためとも》だの朝比奈三郎《あさいなさぶろう》だの、白縫姫《しらぬいひめ》だの楠《くすのき》こまひめだののような人は、どうも見当りません。まして火の中へ隠れてしまう魔法を知って居る犬山道節《いぬやまどうせつ》だの、他人の愛情や勇力を受けついでくれる寧王女《ねいおうにょ》のようなそんな人は、どう致しまして有るわけのものではありません。それでは馬琴が描いた小説中の人物は当時の実社会とはまるで交渉が無いかというと、前々から申しました通り、直接には殆ど関係が無いのでありますが、決して実社会と没交渉無関係ではありませんように考えられます。
 それならどういう風に関係が有ったろうかといいますと、便宜上その答案を三つに分けて申しますが、馬琴の小説中の人物は大別すれば三種類あるのでして、第一には前に申しました一篇の主人公や副主人公やその他にせよ、とにかくに篇中の柱たり棟たる役目を背負って居る「善良の人物」であります。第二には、梟悪《きょうあく》・奸悪等の「邪悪の人物」であります。『弓張月』で申しますれば曚雲《もううん》だの利勇《りゆう》だの、『八犬伝』で申しますれば蟇田素藤《ひきたもとふじ》だの山下|定包《さだかね》だの馬加大記《まくわりだいき》だのであります。第三には「端役《はやく》の人物」で、大善でもない、大悪でもない、いわゆる平凡の人物でありますが、これらの三種の人物中、第一類の善良なる人物は、疑いも無く作者たる馬琴および当時の実社会の善良なる人物の胸中の人物であります。もとより人の胸中の人物でありますから、その通りの人物は実世界において居なかったには相違ありません。しかしながら人の胸中の人物というものは、胸中の人物として別に自《おのずか》ら成り立って居るものでありまして、胸中の人物であるから世に全く無いものであるという訳にはまいりません。仏教徒は仏教徒の胸中の人物がございます、基督《キリスト》教徒は基督教徒の胸中の人物がございます、インデヤンにはインデヤンの胸中の人物がございます、鎌倉武士は鎌倉武士で胸中の人物があります。いわゆる「人の胸中の人物」は、「時代」により「処」によっていろいろに異なって居ります。そのいろいろに異なって居る所以《
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