全く静まりたる、時といひ、処といひ相応して、我耳に入るは我声ながら、若くは随喜仏法の鬼神なんどの、声を和《あは》せて共に誦する歟《か》と疑はるゝまで、上無く殊勝に聞こえわたりぬ。特《こと》に参りたる甲斐はありけり、菩薩も定めしかゝる折のかゝる所作《しよさ》をば善哉《よし》として必ず納受《なふじゆ》し玉ふなるべし、今宵の心の澄み切りたる此の清《すゞ》しさを何に比へん、あまりに有り難くも尊く覚ゆれば、今宵は夜すがら此御堂の片隅になり趺坐《ふざ》なして、暁天《あかつき》がたに猶一[#(ト)]度誦経しまゐらせて、扨其後香華をも浄水をも供じて罷らめと、西行やがて三拝して御仏の御前を少し退《すさ》り、影暗き一[#(ト)]隅に身を捩ぢ据ゑ、凍れる水か枯れし木の、動きもせねば音も立てず、寂然《じやくねん》として坐し居たり。
夜は沈※[#二の字点、1−2−22]と漸く更けて、風も睡れる如くになりぬ。右左に並びて立ちたりける御灯明《みあかし》は一つ消え、また一つ消えぬ。今はたゞいと高き吊灯籠の、光り朦朧として力無きが、夢の如くに残れるのみ。此寺《こゝ》の僧どもは寒気《さむさ》に怯ぢて所化寮《しよけれう》に炉をや囲みてあるらん、影だに終に見するもの無し。云ふべきかたも無く静なれば、日比《ひごろ》焼きたる余気なるべし今薫ゆるとにはあらぬ香の、有るか無きかに自然《おのづから》※[#「鈞のつくり」、第3水準1−14−75]ひを流すも最《いと》能《よ》く知らる。かゝる折から何者にや、此方を指して来る跫音す。御仏に仕ふる此寺《こゝ》のものゝ、灯燭《とうしよく》を続ぎまゐらせんとて来つるにやと打見るに、御堂の外は月の光り白※[#二の字点、1−2−22]として霜の置けるが如くに見ゆるが中を、寒さに堪へでや頭《かしら》には何やらん打被《うちかつ》ぎたれど、正しく僧形したるが歩み寄るさまなり。心を留むるとにはあらざれど、何としも無く猶見てあるに、やがて月の及ばぬ闇の方に身を入れたれば定かには知れぬながら、此御堂に打向ひて一度は先《まづ》拝み奉り、さて静※[#二の字点、1−2−22]と上り来りぬ。御堂は狭からぬに灯《ひ》は蛍ほどなり、灯の高さは高し、互の程は隔たりたり、此方を彼方は有りとも知らず、彼方を此方は能くも見得ねば、西行は只我と同じき心の人も亦有りけるよと思ふのみにて打過ぎたり。
彼方は固より闇
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