の中に人あることを知らざれば、何に心を置くべくも無く、御仏の前に進み出でつ、最《いと》謹《つゝし》ましげに危坐《かしこま》りて、数度《あまたゝび》合掌礼拝《がつしやうらいはい》なし、一心の誠を致すと見ゆ。同じ菩提の道の友なり、其|心操《こゝろばへ》の浅間ならぬも夜深の参詣に測り得たり。衣の色さへ弁《わか》ち得ざれば面《おもて》は況して見るべくも無けれど、浄土の同行の人なるものを、呼びかけて語らばや、名も問はばやと西行は胸に思ひけるが、卒爾に言《ものい》はんは悪《あし》かるべし、祈願の終つて後にこそと心を控へて伺ふに、彼方は珠数を取り出して、さや/\とばかり擦り初《そ》めたり。針の落つる音も聞くべきまで物静かなる夜の御堂の真中に在りて、水精《すゐしやう》の珠数を擦る音の亮《さや》かなる響きいと冴えて神※[#二の字点、1−2−22]し。御経は心に誦するとおぼしく、万籟《ばんらい》絶えたるに珠の音のみをたゞ緩やかに緩やかに響かす。其声或は明らかに或は幽に、或は高く或は低く、寐覚の枕の半は夢に霰の音を聞くが如く、朝霧晴れぬ池の面《おも》に※[#「くさかんむり/函」、第3水準1−91−2]※[#「くさかんむり/陷のつくり」、第4水準2−86−33]《かんたん》の急に開くを聞くが如く、小川の水の濁り咽ぶか雨の紫竹の友擦れ歟、山吹※[#「鈞のつくり」、第3水準1−14−75]ふ山川の蛙鳴くかと過たれて、一声※[#二の字点、1−2−22]中に万法あり、皆与実相《かいよじつさう》不相違背《ふさうゐはい》と、いとをかしくも聞きなさるれば、西行感に入つて在りけるが、期したるほどの事は仕果てゝや其人数珠を収めて御仏をば礼拝すること数度《あまたゝび》しつ、やをら身を起して退《まか》らんとす。菩提の善友、浄土の同行、契を此土に結ばんには今こそ言葉をかくべけれと、思ひ入て擦る数珠《ずゞ》の音の声すみておぼえずたまる我涙かな、と歌の調は好かれ悪かれ、西行|急《にはか》に読みかくれば、彼方は初めて人あるを知り、思ひがけぬに驚きしが、何と仰られしぞ、今一度と、心を圧《おし》鎮《しづ》めて問ひ返す。聞き兼ねけんと猜《すゐ》するまゝ、思ひ入りて擦る数珠の音の声澄みて、と復《ふたゝ》び言へば後は言はせず、君にて御坐せしよ、こはいかに、と涙《なんだ》に顫ふおろ/\声、言葉の文もしどろもどろに、身を投げ伏して取
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