栄《はえ》あらしむること能わず、惜みてもなお惜むべきなり。
堂のこなた一段低きところの左側に、堂守る人の居るところならんと思しき家ありて、檐に響板《ばんぎ》懸り、それに禅教尼という文字見えたり。ここの別当橋立寺と予《かね》て聞けるはこれにやと思いつつ音ない驚かせば、三十路《みそぢ》あまりの女の髪は銀杏返《いちょうがえ》しというに結び、指には洋銀の戒指《ゆびわ》して、手頸《てくび》には風邪ひかぬ厭勝《まじない》というなる黒き草綿糸《もめんいと》の環《わ》かけたるが立出でたり。さすがに打収めたるところありて全くのただ人とも見えぬは、これぞ響板の面に見えたる人なるべし。奥の院の窟の案内頼みたき由をいい入るれば、少時待ち玉えとて茶を薦《すす》めなどしつ、やおら立上りたり。何するぞと見るに、やがて頸《くび》長き槌を手にして檐近く進み寄り、とうとうとうと彼の響板を打鳴らす。禽《とり》も啼《な》かざる山間《やまあい》の物静かなるが中なれば、その声谿に応え雲に響きて岩にも侵み入らんばかりなりしが、この音の知らせにそれと心得てなるべし、筒袖の単衣《ひとえ》着て藁草履《わらぞうり》穿《は》きたる農民の婦
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