より呼び出せる名にて、仮名は違えど贄川は沸川ならんこと疑いなし。いよいよ雲採《くもとり》、白石、妙法の三峰のふもとに来にけりと思いつつ勇み進むに、十八、九間もあるべき橋の折れ曲りて此方より彼方にわたれるが、その幅わずか三尺ばかりにして、しかも処々腐ちたれば、脚の下の荒川の水の青み渡りて流るるを見るにつけ、さすがに胸つぶれて心|易《やす》からず、渡りわずらうばかりなり。むかしは独木橋《まるきばし》なりしといえばその怖ろしさいうばかりなかりしならん。
ようやくにして渡り終れば大華表ありて、華表のあなたは幾百年も経たりとおぼゆる老樹の杉の、幾本となく蔭暗きまで茂り合いたり。これより神の御山なりと思う心に、日の光だに漏らぬ樹蔭の涼しささえ打添わりて、おのずから身も引きしまるようにおぼゆ。山は麓より巓まで、ひた上り五十二町にして、一町ごとに町数を勒せる標石あり。路はすべて杉の立樹の蔭につき、繞《めぐ》り※[#「螢」の「虫」に代えて「糸」、第3水準1−90−16]《めぐ》りて上りはすれど、下りということ更になし。三十九町目あたりに到れば、山|急《にわか》に開けて眼の下に今朝より歩み来しあたりを望む。日も暮るるに近き頃、辛くして頂に至りしが、雲霧|大《おおい》に起りて海の如くになり、鳥居にかかれる大なる額の三峰山という文字も朧気《おぼろげ》ならでは見えわかず、袖《そで》も袂《たもと》も打湿りて絞るばかりになりたり。急ぎて先ず社務所に至り宿仮らん由を乞えば、袴つけたる男我らを誘《いざな》いて楼上《にかい》に導き、幅一間余もある長々しき廊を勾《かぎ》に折れて、何番とかやいう畳十ひらも敷くべき一室《ひとま》に入らしめたり。
あたりのさまを見るに我らが居れる一[#(ト)]棟は、むかし観音院といいし頃より参詣のものを宿らしめんため建てたると覚しく、あたかも廻廊というものを二階建にしたる如く、折りまがりたる一[#(ト)]つづきのいと大なる建物にて、室の数はおおよそ四十もあるべし。一つの堂を中にし、庭を隔てて対《むか》いの楼上の燈を見るに、折から霧濃く立迷いたれば、海に泊まれる船の燈を陸《くが》より遥に望むが如し。此処は水乏しくして南の方の澗《たに》に下る八町ならでは得る由なしと聞けるに、湯殿に入りて見れば浴槽《ゆぶね》の大さなど賑える市の宿屋も及ばざる程にて、心地好きこと思いのほかなり。参詣のものを除きここの人々のみにて百人に近しといえば、まことに然《さ》もあるべきことなるが、水をば今は新らしき装置《しかけ》もて絶ゆる間《ひま》なく汲み上ぐるという。
夜の食を済ませて後、為すこともなければ携えたる地理の書を読みかえすに、『武甲山蔵王権現縁起』というものを挙げたるその中に、六十一代|朱雀《すざく》天皇|天慶《てんぎょう》七年秩父別当武光同其子七郎武綱|云々《うんぬん》という文見え、また天慶七年武光奏し奉りて勅を蒙《こうむ》り五条天皇(疑わし)少彦名命《すくなひこなのみこと》を蔵王権現の宮に合せ祀《まつ》りて云々と見えたり。さてはいよいよ武光という人もありけり、縁起などいうものは多く真《まこと》とし難きものなれど、偽り飾れる疑ありて信《まこと》とし難しものの端々にかえって信とすべきものの現るる習いなることは、譬えば鍍金《めっき》せるものの角々に真の質《きじ》の見《あらわ》るるが如しなどおもう折しも、按摩《あんま》取りの老いたるが入り来りたり。眼|盲《し》いたるに如何でかかる山の上にはあるならんと疑いつ、呼び入れて問いただすに、秩父に生れ秩父に老いたるものの事とて世はなれたる山の上を憂しともせず、口に糊するほどのことは此地《ここ》にのみいても叶えば、雲に宿かり霧に息つきて幾許《いくばく》もなき生命を生くという。おかしき男かなと思いてさまざまの事を問うに、極めて石を愛《め》ずる癖ある叟《おじ》にて、それよりそれと話の次《ついで》に、平賀源内の明和年中大滝村の奥の方なる中津川にて鉱《かね》を採《と》りし事なども語り出でたり。鳩渓の秩父にて山を開かんと企てしことは早くよりその伝説《いいつたえ》ありて、今もその跡といえるが一処ならず残れるよしなれば、ほとほと疑いなきことなるが、知る人は甚だ稀なるようなり。功利に急なりし人の事とて、あるいは秩父の奥なんどにも思いを疲らして手をつけ足を入れしならん。
按摩済む頃、袴を着けたる男また出で来りて、神酒を戴かるべしとて十三、四なる男《お》の児《こ》に銚子|酒杯《さかずき》取り持たせ、腥羶《なまぐさ》はなけれど式立ちたる膳部を据えてもてなす。ここは古昔《むかし》より女のあることを許さねば、酌するものなどすべて男の児なるもなかなかにきびきびしくて好し。神酒をいただきつつ、酒食のたぐいを那処《いずく》より得るぞと問うに、酒は
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