その凸《たか》く張り出でたるところを似つかわしきものに擬《よそ》えて、昔の法師らの呼びなせしものにて、窟の内に別に一々岩あるにはあらず。
道二つに岐《わか》れて左の方に入れば、頻都廬《びんずる》、賽河原《さいのかわら》、地蔵尊、見る目、※[#「鼾のへん+嗅のつくり」、第4水準2−94−73]《か》ぐ鼻、三途川《さんずのかわ》の姥石《うばいし》、白髭明神、恵比須、三宝荒神、大黒天、弁才天、十五童子などいうものあり。およそ一町あまりにして途《みち》窮まりて後戻りし、一度|旧《もと》の処に至りてまた右に進めば、幅二尺ばかりなる梯子《はしご》あり。このあたり窟の内闊くしてかえって物すさまじ。梯の子十五、六ばかりを踏みて上れば、三十三天、夜摩天、兜率天《とそつてん》、※[#「りっしんべん+刀」、第3水準1−84−38]利天《とうりてん》などいうあり、天人石あり、弥勒仏《みろくぶつ》あり。また梯子を上りて五色の滝、大梵天、千手観音などいうを見る。難界が谷というは窟の中の淵ともいうべきものなるが、暗くしてその深さを知るに由なく、さし覗くだに好《よ》き心地せず。蓮花幔とて婦燭を岩の彼方にさしつくれば、火の光朧気に透きて見ゆるまで薄くなりて下れる岩あり。降り竜といえるは竜の首めきたる岩の、上より斜に張り出でたるなるが、燭を執りたる婦に従いて寒月子があたかもその岩の下を行くを後より見れば、さなきだに燭の光りのそこここに陰影《かげ》をつくれるが怪しく物怖ろしげに見ゆる中に、今や落ちかからんずる勢して、したたかなる大きさの岩の人の頭の上に臨めるさま、見るものの胆を冷さしむ。それよりまた梯子を上り、百万遍の念珠、五百羅漢、弘法大師の護摩壇、十六善神などいうを見、天の逆鉾《さかほこ》、八大観音などいうものあるあたりを経て、また梯子を上り、匍匐《はらば》うようにして狭き口より這い出ずれば、忽ち我眼我耳の初めてここに開けしか、この雲行く天《そら》、草|芳《かお》る地の新にここに成りしかを疑う心の中のすがすがしさ、更に比えんかたを知らず。
古よりこの窟に入りて出ずることを窟禅定と呼びならわせる由なるが、さらばこの窟を出でたる時の心地をば窟禅定の禅悦ともいうべくやなどと、私《ひそか》に戯れながら堂の前に至る。この窟地理の書によるに昇降《のぼりくだり》およそ二町半ばかり、一度は禅定すること廃《すた》れしが、元禄年中三谷助太夫というものの探り試みしより以来《このかた》また行わるるに至りしという。窟のありさまを考うるに、あるいは闊くなりあるいは狭くなり、あるいは上りあるいは下り、極めて深き底知れぬ谷などのあるのみならず、岩のさま角だたず滑らかにして、すべて物の自然《おのずから》溶け去りし後の如くなれば、人の造りしものともおもわれず、七宝所成にして金胎両部の蓮華蔵海なりなどいう法師らが説はさておき、まことにおのずから成れる奇窟なるべく、東の出口と西の入口と相隔たること窟の外にてもおよそ一町ほどなれば、窟の中二町余りというも虚妄《いつわり》にあらじと肯わる。ただ窟の内のさまざまの名は皆強いて名づけたるにて、名に副うものは一もなし。
窟禅定も仕はてたれば、本尊の御姿など乞い受けて、来し路ならぬ路を覚束《おぼつか》なくも辿ることやや久しく、不動尊の傍《かたえ》の清水に渇《かわ》きたる喉を潤《うるお》しなどして辛くも本道に出で、小野原を経て贄川に憩《いこ》う。荒川橋とて荒川に架《わた》せる鉄橋あり。岸高く水遠くして瀬をなし淵をなし流るる川のさまも凡《ただ》ならぬに、此方の岩より彼方の岩へかかれる吊橋の事なれば、塗りたる色の総べて青きもなかなかに見る眼|厭《いと》わしからず、瑞西《スイツル》あたりの景色の絵を目のあたり此処に見る心地す。贄川は後に山を負い前に川を控えたる寂びたる村なれど、家数もやや多くて、蚕《かいこ》の糸ひく車の音の路行く我らを送り迎えするなど、住まば住み心よかるべく思わるるところなり。昼食《ひるげ》しながらさまざまの事を問うに、去年《こぞ》の冬は近き山にて熊を獲《と》りたりと聞き、寒月子と顔見合わせて驚き、木曾路の贄川、ここの贄川、いずれ劣らぬ山里かな、思えば思い做《な》しにや景色まで似たるところありなどと語らう。
贄川を立ち出でて猪の鼻を経、強石に到る。贄川より隧道《トンネル》を過ぐるまでの間、山ようやく窄り谷ようやく窮まりて、岨道の岩のさまいとおもしろく、原広く流れ緩きをもて名高き武蔵の国の中にもかかるところありしかと驚かる。されど隧道を過ぐれば趣き変りて、兀げたる山のみ現れ来るもおかし。上りつ下りつして強石を過ぎ、川のほとりにいたる。川のむかいは即ち三峰にて、強石は即ち多くの地図に大滝と見えたる村の小名なり。大滝というも贄川というも、水の流れ烈しき
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