橋立川と呼ぶものなるべし、水音の涼しげに響くを聞く。それより右に打ち開けたるところを望みつつ、左の山の腰を繞りて岨道《そばみち》を上り行くに、形おかしき鼠色の巌の峙てるあり。おもしろきさまの巌よと心留まりて、ふりかえり見れば、すぐその傍《かたえ》の山の根に、格子しつらい鎖さし固め、猥《みだり》に人の入るを許さずと記したるあり。これこそ彼の岩窟《いわや》ならめと差し覗《のぞ》き見るに、底知れぬ穴一つ※[#「穴かんむり/目」、第3水準1−89−50]然《ようぜん》として暗く見ゆ。さてはいよいよこれなりけりと心勇みて、疾《と》く嚮導《しるべ》すべき人を得んと先ず観音堂を索むるに、見渡す限りそれかと覚しきものも見えねばいささか心惑う折から、寒月子は岨道を遥かに上り行きて、ここに堂あり堂ありと叫ぶ。嬉しやと己も走り上りて其処《そこ》に至れば、眼の前のありさま忽ち変りて、山の姿、樹立の態《さま》も凡《ただ》ならず面白く見ゆるが中に、小き家の棟二つ三つ現わる。名にのみ聞きし石竜山の観音を今ぞ拝み奉ると、先ず境内に入りて足を駐《と》めつ、打仰ぎて四辺《あたり》を見るに、高さはおよそ三、四百尺もあるべく亙りは二町あまりもあるべき、いと大きなる一[#(ト)]つづきの巌の屏風なして聳《そび》え立ちたるその真下に、馬頭尊の御堂の古びたるがいと小やかに物さびて見えたるさま、画としても人の肯うまじきまで珍らかにめでたければ、言語《ことば》を以ては如何にしてか見ぬものをして点頭《うなず》かしむることを得ん、まことにただ仙境の如しといわんのみ。巌といえば日光の華厳の滝のかかれる巌、白石川の上なる材木巌、帚川のほとりの天狗巌など、いずれ趣致《おもむき》なきはなけれど、ここのはそれらとは状《さま》異《かわ》りて、巌という巌にはあるが習いなる劈痕《さけめ》皺裂《ひびり》の殆《ほとん》どなくして、光るというにはあらざれど底におのずから潤《うるおい》を含みたる美しさ、たとえば他《よそ》のは老い枯びたる人の肌の如く、これは若く壮《さかん》なる人の面の如し。特に世の常の巌の色はただ一[#(ト)]色にしておかしからぬに、ここのは都《すべ》ての黒きが中に白くして赤き流れ斑の入りて彩色《いろどり》をなせる、いとおもしろし。憾《うら》むらくは橋立川のやや遠くして一望の中に水なきため、かほどの巌をして一[#(ト)]しおの栄《はえ》あらしむること能わず、惜みてもなお惜むべきなり。
堂のこなた一段低きところの左側に、堂守る人の居るところならんと思しき家ありて、檐に響板《ばんぎ》懸り、それに禅教尼という文字見えたり。ここの別当橋立寺と予《かね》て聞けるはこれにやと思いつつ音ない驚かせば、三十路《みそぢ》あまりの女の髪は銀杏返《いちょうがえ》しというに結び、指には洋銀の戒指《ゆびわ》して、手頸《てくび》には風邪ひかぬ厭勝《まじない》というなる黒き草綿糸《もめんいと》の環《わ》かけたるが立出でたり。さすがに打収めたるところありて全くのただ人とも見えぬは、これぞ響板の面に見えたる人なるべし。奥の院の窟の案内頼みたき由をいい入るれば、少時待ち玉えとて茶を薦《すす》めなどしつ、やおら立上りたり。何するぞと見るに、やがて頸《くび》長き槌を手にして檐近く進み寄り、とうとうとうと彼の響板を打鳴らす。禽《とり》も啼《な》かざる山間《やまあい》の物静かなるが中なれば、その声谿に応え雲に響きて岩にも侵み入らんばかりなりしが、この音の知らせにそれと心得てなるべし、筒袖の単衣《ひとえ》着て藁草履《わらぞうり》穿《は》きたる農民の婦《おんな》とおぼしきが、鎌を手にせしまま那処《いずく》よりか知らず我らが前に現れ出でければ、そぞろに梁山泊《りょうざんぱく》の朱貴が酒亭も思い合わされて打笑まれぬ。
婦は我らを一目見て直ちに鎌を捨て、蝋燭《ろうそく》、鍵などを主人《あるじ》の尼より受け取り、いざ来玉えと先立ちて行く。後に従いて先に見たる窟の口に到れば、女先ず鎖を開き燭《ひ》を点《とも》して、よく心し玉えなどいい捨てて入る。背をかがめ身を窄《せば》めでは入ること叶わざるまで口は狭きに、行くては日の光の洩るる隙もなく真黒にして、まことに人の世の声も風も通わざるべきありさま、吾他《われひと》が終《つい》に眠らん墓穴もかくやと思わるるにぞ、さすがに歩《あゆみ》もはかばかしくは進まず。されど今さら入らずして已《や》まん心もなければ、後れじものと従いて入るに、下ること二、三十歩にして窟の内やや広くなり、人々立ち行くことを得《う》。婦燭を執《と》りて窟壁《いわ》の其処此処《そこここ》を示し、これは蓮花の岩なり、これは無明の滝、乳房の岩なりなどと所以《いわれ》なき名を告ぐ。この窟上下四方すべて滑らかにして堅き岩なれば、これらの名は皆
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