くする中、さしもの雷雨もいささか勢弱りければ、夜に入らぬ中にとてまた車を駛《は》せ、秩父橋といえるをわたる。例の荒川にわたしたるなれば、その大なるはいうまでもなく、いといかめしき鉄の橋にて、打見たるところ東京なる吾妻《あずま》橋によく似かよいたる節あり。同じ人の作りたるなりというも、まことにさもあるべしとうけがわる。ほどなく大宮につきて、関根屋というに宿かれば、雨もまたようやく止みて、雲のたえだえに夕の山々黒々と眼近くあらわれたり。ここは秩父第一の町なれば、家数も少からず軒なみもあしからねど、夏ながら夜の賑《にぎ》わしからで、燈の光の多く見えず、物売る店々も門の戸を早く鎖《とざ》したるが多きなど、一つは強き雨の後なればにもあるべけれど、さすがに田舎びたりというべし。この日さのみ歩みしというにはあらねど、暑かりしこととていたく疲れたるに、腹さえいささか痛む心地《ここち》すれば、酒も得飲まで睡《ねむ》りにつく。
 八日、朝餉《あさげ》を終えて立出で、まず妙見尊の宮に詣ず。宮居は町の大通りを南へ行きて左手にあり。これぞというべきことはなけれど樹立《こだち》老いて広前もゆたかに、その名高きほどの尊さは見ゆ。中古《なかむかし》の頃この宮居のいと栄えさせたまいしより大宮郷というここの称えも出で来りしなるべく、古くは中村郷といいしとおぼしく、『和名抄』に見えたるそのとなえ今も大宮の内の小名に残れりという。この祠の祭の行わるるときは、御花圃とよぶところにて口々に歌など唱いながら、知る知らぬ男女ども、こなた行き、かなた行きして、会いつ別れつしつつ相戯れて遊びくらすを習いとすとかや。かかるならいは、よその国々も少なからず、むかしの「かがい」ということなどの名残にもやあるべき。磐城《いわき》の相馬《そうま》のは流山ぶしの歌にひびき渡りて、その地に至りしことなき人もよく知ったることなるが、しかも彼処といい此処といい、そのまつる所のものの共に妙見尊なるいとおかしく、相馬も将門《まさかど》にゆかりあり、秩父も将門にゆかりある地なるなど、いよいよ奇《くす》し。
 やがて立出でて南をむきて行くに、路にあたりていと大きなる山の頭を圧す如くに峙《そばだ》てるが見ゆ。問わでも武甲山《ぶこうさん》とは知らるるまで姿雄々しくすぐれて秀《ひい》でたり。横瀬、大宮、上影森、下影森、浦山、上名栗、下名栗の七村に跨《またが》れるといえる、まことにさもあるべし。この山のとなえをいつの頃よりか武甲と書きならわししより、終《つい》に国の名の武蔵の文字と通わせて、日本武尊《やまとたけるのみこと》東夷《あずまえびす》どもを平げたまいて後|甲冑《よろいかぶと》の類をこの山に埋めたまいしかは、国を武蔵と呼び山を武甲というなどと説くものあるに至れり。説のいつわりなるべきは誰しも知るところなれど、山の頂に日本武尊をいつきまつりありなんどするまま、なおあるいは然らんとおもう人もなきにあらず。されど文字も古くは武光とのみ書きて武甲とは書かねば、強言《しいごと》そのよりどころを失うというべし。さてまたひそかにおもうに、武光のとなえも甚だ故なきに似て、地理の書などにもその説を欠けり。けだし疑うらくはここらを領せし人の名などより、たけ光の庄、たけ光の山などとの称の起りたるならんか。いと古くより秩父の郡に拠《よ》りて栄えたる丹の党には、その初めてここに来りし丹治比武信、また初めてここを領せし武経などの如く、武の字を名につけたるもの多ければ、あるいは武光というものもありしかと思わる。ただし地の名より人の名の起れる例《ためし》は多けれど、人の名より地の名の起れる例はいと少ければ、武光は人の名ならんとの考えもいと力なしなど思いつつ、桑圃の中の一すじ路を行くに、露もまだ乾ぬ桑の葉の上吹く朝風いと涼しく、心地よきこというばかりなし。武光山より右にあたりて山々連なり立てるが中に、三峰《みつみね》は少しく低く黒みて見ゆ。それより奥の方、甲斐境《かいざかい》信濃境の高き嶺々重なり聳《そび》えて天《そら》の末をば限りたるは、雁坂十文字《かりさかじゅうもんじ》など名さえすさまじく呼ぶものなるべし。
 進み進みて下影森を過ぎ上影森村というに至るに、秩父二十八番の観音へ詣らんにはここより入るべしと、道のわかれに立札せるあり。二十八番の観音は、その境内にいと深くして奇しき窟あるを以て名高きところなれば、秩父へ来し甲斐《かい》には特にも詣らんかとおもいしところなり。いざとて左のかたの小き径に入る。枝路のことなれば闊《ひろ》からず平かならず、誰《た》が造りしともなく自然《おのず》と里人が踏みならせしものなるべく、草に埋もれ木の根に荒れて明らかならず、迷わんとすること数次《しばしば》なり。山沿いの木下蔭小暗きあたりを下ること少時にして、
前へ 次へ
全10ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング