此山《ここ》にて醸《かも》せどその他は皆山の下より上すという。人馬の費《ついえ》も少きことにはあらざるべきに盛なることなり。この山|是《かく》の如く栄ゆるは、ここの御神の御使いの御狗というを四方の人々の参り来て乞い求むるによれり。御神は伊奘諾伊奘冊二柱の神にましませば申すもかしこし、御狗とは狼をさしていう。もとより御狗を乞い求むるとて符牘のたぐいを受くるには止まれど、それに此山《ここ》の御神の御使の奇しき力籠れりとして人々は恐れ尊むめり。狼の和訓おおかみといえるは大神の義にて、恐れ尊めるよりの称《となえ》なれば、おもうに我邦のむかし山里の民どもの甚《いた》く狼を怖れ尊める習慣《ならわし》の、漸くその故を失ないながら山深きここらにのみ今に存《のこ》れるにはあらずや。
我邦には獅子虎の如きものなければ、獣には先ず狼熊を最も猛しとす。されば狼を恐れて大神とするも然るべきことにて、熊野は神野の義、神稲をくましねと訓《よ》むたぐいを思うに、熊をくまと訓むはあるいは神の義なるや知るべからず。(或曰、くまは韓語、或曰、くまは暈《くま》にて月の輪のくま也。)ただ狼という文字は悪《あし》きかたにのみ用いらるるならいにて、豺狼、虎狼、狼声、狼毒、狼狠、狼顧、中山狼、狼※[#「冫+(餮−殄)」、第4水準2−92−45]、狼貪、狼竄、狼藉、狼戻、狼狽、狼疾、狼煙など、めでたきは一つもなき唐山《もろこし》のためし、いとおかし。いわゆる御狗を出すところは此山のみならず、来し路の宝登神社、贄川の猪狩明神、薄村の両神神社なども皆人の乞うに任せて与うという。秩父は山重なり谷深ければ、むかしは必ず狼の多かりしなるべく、今もなお折ふしは見ゆというのみか、此山《ここ》にては月々十九日に飯生酒など本社より八町ほど隔たりたるところに供置きて与うといえば、出で来ぬには限らぬなるべし、おそろしき事かななど寒月子と窃《ひそ》かに語り合いつつ、好きほどに酒杯《さかずき》を返し納めて眠りに就くに、今宵は蚊もなければ蚊屋も吊《つ》らで、しかも涼しきに過ぐれば夜被《よぎ》引被ぎて臥《ふ》す。室は紙障子引きたてしのみにて雨戸ひくということもせず戸の後鎖《しりざし》することもせざる、さすがに御神の御稜威《みいづ》ありがたしと心に浸みて嬉しくおぼえ、胸の海浪おだやかに夢の湊に入る。
九日、朝四時というに起き出でて手あらい口そそぎ、高き杉の樹梢《こずえ》などは見えわかぬほど霧深き暁の冷やかなるが中を歩みて、寒月子ともども本社に至り階《きざはし》を上りて片隅に扣《ひか》ゆ。朝々の定まれる業なるべし、神主|禰宜《ねぎ》ら十人ばかり皆|厳《おごそ》かに装束《しょうぞく》引きつくろいて祝詞《のりと》をささぐ。宮柱太しく立てる神殿いと広く潔《きよ》らなるに、此方《こなた》より彼方《かなた》へ二行《ふたつら》に点《とも》しつらねたる御燈明《みあかし》の奥深く見えたる、祝詞の声のほがらかに澄みて聞えたる、胆にこたえ身に浸《し》みて有りがたく覚えぬ。やがて退《まか》り立ちて、ここの御社の階《はし》の下の狛犬も狼の形をなせるを見、酒倉の小さからぬを見などして例のところに帰り、朝食《あさげ》をすます。
これよりなお荒川に沿いて上り、雁坂《かりさか》峠を越えて甲斐《かい》の笛吹《ふえふき》川の水上に出で、川と共に下りて甲斐に入り、甲斐路を帰らんと予《かね》ては心の底に思い居けるが、ここにて問い糺《ただ》せば、甲斐の川浦という村まで八里八町人里もなく、草高くして路もたえだえなりとの事に望を失ない、引返さんと心をきわむ。日本武尊の常陸《ひたち》より甲斐の酒折に至りたまいし時は、いずれの路を取り玉いしやらん。常陸より甲斐に至らんに武蔵《むさし》よりせんには、荒川に沿いて上ると玉川に沿いて上るとの二路あり。三峰、武光、八日見山を首とし、秩父には尊の通り玉いし由のいい伝え処々に存《のこ》れるが、玉川の水上即ち今の甲斐路にも同じようの伝説《いいつたえ》なきにあらず。また尊の酒折より武蔵上野を経て信濃《しなの》に至りたまいし時は、いずくに出で玉いしならん。酒折より笛吹川に沿うて上りたまいしならんには必ず秩父を経たまいしなるべし。雁坂の路は後北条氏頃には往来絶えざりしところにて、秩父と甲斐の武田氏との関係浅からざりしに考うるも、甚《はなは》だ行き通いし難からざりし路なりしこと推測《おしはか》らる。家を出ずる時は甲斐に越えんと思いしものを口惜《くちおし》とはおもいながら、尊の雄々しくましませしには及ぶべくもあらねば、雁坂を過ぎんことは思い断えつ、さればとて大日向の太陽寺へ廻らん心も起さず、ひた走りに走り下りて大宮に午餉《ひるげ》す。ふたたび郷平《ごうへい》橋を渡りつつ、赤平川を郷平川ともいうは、赤平の文字もと吾平と書きたるを
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