淡島寒月氏
幸田露伴

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)當推量《あてずゐりやう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)血脈|相牽《あひひ》く

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)中※[#二の字点、1−2−22]廣く渉られ

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)樂み/\影寫してゐられた。
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 寒月氏は今年七十歳を以て二月廿三日に永逝した。本間久雄氏から、予の知るところの寒月氏を傳へて呉れと依頼を受けたので、ほんとにたゞ予の知れる限りの寒月氏――予の知らぬ他の方面の寒月氏も定めし多いだらうが、それに就ての臆測や聞取りなぞを除いて――を有りのまゝに思出づるまゝに記す。人の事をしるすに、當推量《あてずゐりやう》や嘘を交《ま》ぜて、よい加減に捏上《こねあ》げるのは、予の好かぬことである。だから以下にしるすことは、予自身の目賭した事か、さもなければ予が氏より直接に聞いたことである。
 氏の極若い時は無論予は知らぬ。然し氏から聞いたところでは、氏は極若い時は當時の所謂文明開化の風の崇拜者で、今で云へば大《だい》のハイカラであつたのだ。何でも西洋風の事が好きであつたとの事だつた。氏の父の椿岳氏《ちんがくし》がまだ西洋樂器が碌に舶來せぬ頃、洋樂の曲を彈奏する日本人などの全然無かつた時に於て、ピアノだつたかオルガンだつたか何でも西洋音樂を殆んどイの一番に横濱で買込み、それから又西洋風の覗き眼鏡を買つて、淺草公園で人に觀せたことが有つたといふ事實などに思合せて、如何にも文明黨だつたらうとも思はれる。
 然し予が氏を知つた時分は、氏は既に日本趣味の人であつた。今でこそ燕石十種は刊本にもあるが、其頃は寫本のみであつたし、大册六十册の完本は非常に珍稀であつた。それで氏はそれを圖書館で毎日毎日氣長に樂み/\影寫してゐられた。毎日借覽する本が定まつてゐるので、圖書館の出納係から云へば、まことに手數のかゝらぬ好い閲覽人で、いつとなく燕石十種先生といふ綽名をつけられたが、予輩の如き卒讀亂讀者流の出納係に手數をかけること夥しい厄介ものとは違つて、館の人とも自然に懇《ねんごろ》にしあつてゐられた。
 繪は椿岳氏から學ばれたのか何樣か知らない。が、後に至つて自然と何處か椿岳氏と血脈|相牽《あひひ》くところの畫を作られたのに比して、早い頃のものは畫は眞面目な、手際のきれいな方のものであつた。
 讀書はヘチ堅いものの方へは向はれ無かつたが、美術、文學、隨筆、雜書方面へは中※[#二の字点、1−2−22]廣く渉られ、文學は徳川期、美術は奈良あたりまで、特《こと》に美術の方は書籍研究のみで無く、實物研究にも年月を過されたから、其の鑑識眼は實技上の智識が内部から支持するのと相伴つて、直覺的にばかりで無く、比較的にばかりで無く、精髓から出發して看到するところの中※[#二の字点、1−2−22]手強いものが有つた。世間慾が盛んで、書畫骨董でも取扱つた日には、學問も文字も相當にあり、愛嬌も有り聰明怜悧の人であつたから、慥に巨萬の富を獲るに足るのであつたが、それでゐて其樣な事で利を得る人を冷眼に見るやうな傾が有つて、そんな事を敢てしなかつたところは、一ツは生活難が無かつた爲でもあらうが、氏のおもしろい氣風のところであつて、傲岸の氣味の無いでも無かつた依田學海氏などの氏を打寛いだ好い友人とした所以であつた。文學に於ても矢張り其氣味があつて、根深く手を染めてゐれば、多數で無いにせよ、必ずや一部二部は此人で無ければ書けないといふやうなものを留めたのに相違無いのに、西鶴ばりの「百美人」だのなんだのといふのを一寸書いた位で終つて仕舞つたのは、それも却つて其一生が幸福で有つた證據で芽出度には相違無いが、少し殘りをしい氣がする。俳諧なぞも芭蕉以後のイヤにショボたれたやうなのは嫌ひで、宗因風の所謂檀林がゝつたのを、我流でホンのよみすてに吟出するに止まつたから、永機なぞと知合つたにもかゝはらず、俳諧もおもちやにするに過ぎなかつた。エラがつて、おれの俳諧は眞劍だなぞと云ひながら、好い句も作れぬばかりで無く、審美眼さへまだ碌に開いてゐないやうな人※[#二の字点、1−2−22]とはまるで行き方が違つてゐて、勝手に遊んでゐたといふ風なので、句も

[#天から4字下げ]行水は其日※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]の湯くわん哉

といふやうなのが多い。寫實の句になると猶更抛り出したやうなのが好きで、

[#天から4字下げ]見おろすや音羽の瀧に三人ならぶ

は何樣だい、
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