なぞと自ら笑つてゐるといふ調子であつた。かつて聯句を試みたことが有つたが、すべて其調子だから、何も彼も構ふものでは無いので、其の自由自在で、おもしろいことと云つたら無かつた。其代り所謂宗匠に視せると、宗匠は苦《にが》い澁い顏をするもので、其の又宗匠のイヤな顏をするのを面白がつたものであつた。
禪にも或時代には參したのであるが、參禪などしない中から寒月流の一家の悟りを開いてゐるのだから、そして又恐ろしい禪師に出會するやうな機縁も無かつたのであるから、傍《はた》から觀ると禪師の方は立派な師家であらうが、氏の方が中※[#二の字点、1−2−22]洒落てゐる。本所の五百羅漢寺で或時問答をしたのを、丁度誘引されて傍觀した事があるが、思ひ出しても涙がこぼれるほどおもしろかつた。禪師が侍者を具して威張り込んで椅子にかけてゐると、僧俗が交《かは》る/″\出て何か云ふ、應酬宜敷あるといふ次第だ。やがて氏が出て、何をいふかとおもふと、如何なるか是れらいうん、と何か分らない方角を指でさして問うた。予には何だか分らなかつた。「らいうん」なんて何の事だか誰にも分らなかつたらう。すると禪師は、先刻既に説了す、と答へた。流石に澄ましたものだ。氏はそこで工合よく禮を作《な》して而して去つたのである。其場はそれで濟んで仕舞つたのであるが、自分にも「らいうん」といふのが何樣も、トツケも無くて分らなかつた。何樣も禪録にも「らいうん」といふのは思當らないので、後で、あの「らいうん」といふのは何だね、と聞くと、らいうんは來る雲さ、雲がブラ/\と來る其意は何樣だと問うてやつたのさ、と云ふので、予は堪《たま》らなくなつて笑ひ出すと、氏も一緒になつて面白がつて笑つてゐるのであつた。後年基督教の外人宣教師が小梅あたりに來て住んでゐたので、氏も其教を聽いたから、宣教師の妻が氏の家に訪ふに及んだ。ところが來て見ると、室中一ぱいに色※[#二の字点、1−2−22]な物がゴテゴテ有る、中にも古い佛像などが二ツや三ツで無く飾つてあつたので、外國婦人の事だから眼を瞠《みは》つて驚いた。氏は其樣子を見て、其等の偶像を指さしながら、“All is my toys.”と云つたので、其日だつたか其次の日だつたか、其談を聞いて、予は「らいうん」を思ひ出して、おもしろいと思つた。
人類學を研究するなぞといふ然樣いふ肩の張つた譯では無かつたらしいが、原人土器採集や比較などにも興味を有して、數※[#二の字点、1−2−22]近在へ出掛けられたが、予は土器いぢりは好まなかつたから餘り知らぬ。然し一日、土器破片を氏が模造してゐるのを見て、實に其の好事に驚いた。何千年前の土器の破片を模造して、そして樂しんで居る人が、他に何所に有らう。すべて此樣な調子で自ら娯《たのし》んでゐたのが、氏の面目で有つた。
氏の一生を通じて、氏は餘り有るの聰明を有してゐながら、それを濫用せず、おとなしく身を保つて、そして人の事にも餘り立入らぬ代りに、人にも厄介を掛けず人をも煩はさず、來れば拒まず、去れば追はずといふ調子で、至極穩やかに、名利を求めず、たゞ趣味に生きて、樂しく長命した人で有つた。晩年の氏は、予が貧困多忙でおちついて遊ぶ暇が少くなつたために不知不識訪問して閑談を樂むの機會が乏しくなり、又住所も遠ざかつたので、傳聞に其無事なのを知つて居た位に過ぎなかつたから、よくは知らぬが、矢張り例に依つて例の如くおとなしく面白く世を送つてゐられた事とおもふ。中年頃の氏が藏書に富んで、そして其を予輩等に貸與することを悋まず、無邪氣にして趣味ある談話を交換することを厭はれ無かつたことは、今猶追懷やまざることである。
[#地から2字上げ](大正十五年四月)
底本:「露伴全集第三十卷」岩波書店
1954(昭和29)年7月16日初版発行
1979(昭和54)年7月16日2刷
初出:「早稻田文学」
1926(大正15)年4月号
入力:土倉明彦
校正:小林繁雄
2007年8月15日作成
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