に中田の竿あれば我に藤作の竿あり、我が拙きか兄上が拙きか、釣りの道の技《わざ》くらべは明日こそとて、鼻息荒く誇る。それには答へで、好し好し、もはや灯火《ともしび》も点《つ》き人※[#「※」は「二の字点」、第3水準1−2−22、167−3]も皆|夜食《ゆふげ》を終へたるに、汝のみ空言《あだごと》言ひ居て腹の膨るゝやらん、まづ/\飯食へと云ひて其竿を見るに、これもなか/\悪《あし》からぬ竿なり。されど我が物は傘の雪をも軽しとし、人の物は正宗にも疵を索むるが傾きやすき我等の心なれば、我は我が竿を良しといひ、弟はまたおのれのを良しと云ひて、互ひに視誉《みほ》め手誉めを敢てす。弟また袂より紙包みにしたる一の鉛錐を取り出して、兄上が購《か》ひ来玉ひし品は「にっける」を被《き》せたれば、陸にては甚《よ》く輝けど、水の中にては黒みて見ゆる気味ありて魚の眼を惹くこと少しとなり、我が購ひ来しは銀色なせる梨子肌のものなれば、陸にては輝かねど水の中にては白く見えて却つて魚の眼を惹くこと多かるべしとなり、且兄上がのは円※[#「※」は「つちへん+壽」、第3水準1−15−67、167−10]形にして我がものは球形なり、円※[#「※」は「つちへん+壽」、第3水準1−15−67、167−10]形|若《もしく》は方※[#「※」は「つちへん+壽」、第3水準1−15−67、167−10]形のものは其《そ》を水底に触れつ離れつせしむる折に臨み、水底にて立ちては仆れ立ちては仆るゝまゝ要無き響きの手に伝はりて悪《あし》し、球形のは水底に触るゝ時たゞ一たび其響き手に至るのみなれば、いと明らかにして好しと聞きぬ、如何にも道理《ことわり》あることにはあらずや、鉛錐は我が買ひ来しものこそ好けれと云ふ。よつて弟が購《か》ひ来りしものを視るに、銀色にして上光《うはびかり》無く、球形にして少しく肌|麁《あら》し。弟の言ふも一トわたり聞えたれど、光りの事は水の中に入りて陽《ひなた》のところ陰のところに二種のものの如何に見ゆべきやを検めでは何とも云ひ難し、又※[#「※」は「つちへん+壽」、第3水準1−15−67、167−10]形球形の説も道理には聞ゆれど、此頃の鼠頭魚釣りには鉛錐を水底に触れさせ離れさすやうなることを為さでもあるべく、たゞ及ぶたけ遠きところに鉛錐を投げ込みて漸く手元に引き近づくるのみなれば、響きの紛れの有る無しの如きは固より要無き談なりと思ひつ、打出して、かく/\なれば汝の言は取るに足らずと云ふ。弟は弟、兄は兄、互に言ひ募りて少時は争ひしが、さらば明日に至りて我言の誤らぬしるしを見せん、見せまゐらせんと云ふ言葉にて、争ひは已みぬ。
雨はまた一トしきり木々の梢に音立てゝ降り来り、夜は静かにして灯火黄なり。兄は弟の面を視、弟は兄の面を視て、ものいはぬこと良《やゝ》久し。明日の天《そら》を気づかひて今朝より人※[#「※」は「二の字点」、第3水準1−2−22、168−6]に幾度か尋ね問ひしに、おぼえある人※[#「※」は「二の字点」、第3水準1−2−22、168−7]は皆、今日こそ斯く曇れ明日は必ず雨無かるべしと云ひしが、此のありさまにては晴るゝべくもあらず、空頼めとはかゝる時より云ひ出したる言葉なるべしなどと心の内に喞つ折しも、雨を衝《つい》て父上来玉へり。
かねて御申しかはせは仕たりしも此の雨にては明日のほども覚束無し、まことに本意《ほい》無《な》くは侍れど心に任せぬは天《そら》の事なり、まづ兎も角も休ませ玉へと云へば、父上は打笑ひ玉ひて、天のさまの測り難きは常の事なれば喞つべからず、されど今斯程に雨ふるは却つて明日の晴れぬべき兆《しるし》ならんも知るべからず、我が心にては何と無く明日は必ず晴るべきやう思ひ做さるゝなりなどと説き玉ふ。弟も我もこれに聊か頼もしくは思ひながらも、猶板戸打つ雨の音に心悩ましくおぼえて、しぶる/\枕につく。天若し晴れたらんには夜の二時といふに船を出さんとの約束なれば、夢も結ぶか結ばざるに寐醒めて静かに外のさまを考ふるに、雨の音は猶止まず、庭樹の戦《そよぎ》に風さへ有りと知らる。今はこれまでなりと其儘枕に就きたれど、流石に若くは今少時にして晴れもやせんとの心に引かされて、直ちには睡りかね居たるに、思ひは同じ弟も常には似ず眼さとく起き出でゝ、耳を欹てつ何やらん打案じ顔したりしが、やがて腹立たしげに舌打ち一つして、また夜被《よぎ》引かつぎたるさまいとをかしかりければ、思はず知らずふゝと笑ひを洩らす。其声を聞きつけて、兄上も寤め居たまへるや、此雨はまた如何に降りに降る事ぞ、さても口惜からずやと力無く睡気に云ふ。我もあまりの興無さに答へをせんも物憂くて、おゝとのみ応へつ、また睡る。
若くは雨の止むこともあらんとの思ひに心休まらで、睡るとも無く睡らぬとも無く時を過ごしける中、いつしか我を忘れて全く睡りに入りけるが、兄上※※[#「※」は「二の字点」、第3水準1−2−22、169−7]と揺り覚まされて、はつと我に返れば、灯火《ともしび》の光きら/\として室の内明るく、父上も弟も既《はや》衣をあらためて携ふべきものなど取揃へ、直にも立出でんありさまなり。雨は止みたりや、天《そら》は如何にと云へば、弟、雨は猶降れゝど音も無き霧雨となりたり、雲の脚|断《き》れて天明るくなりたれば、やがて麗はしく晴れん、人々の言葉も必ず空頼めなるまじと勇み立つて云ふ。雨戸一枚繰り開けたるところより首をさし出して窺ふに、薄墨色の雲の底に有るか無きかの星影の見えたるなど、猶おぼつか無くは思はるれど望みを断つべくもあらぬさまとなりぬ。いざさらば船宿まで行かめ、船出す出さぬは船頭こそ判じ定むべけれ、我等の今こゝにて測り知るべきにはあらず、行かめ、行かめと手疾く衣を更へて立出づ。
三時を纔に過ぎたるほどの頃なれば、吾が家の門の戸引開くる音さへいと耳立ちて、近き家※[#「※」は「二の字点」、第3水準1−2−22、169−15]に憚りありとおもはるゝまで、四囲《あたり》は物静かなり。傘さゝでもあるべき雨、堤の樹※[#「※」は「二の字点」、第3水準1−2−22、169−16]の梢に音さするまでならぬ風、おぼろげなる星の光、人顔定かならぬ明るさなど、なか/\にめでたき払曉《あけがた》のおもむきを味はひて、歌もがななんど思ひつゝ例の長き堤を辿る。おのれは竿を肩にし、弟は食料を提げ、父上は※[#「※」は「たけかんむり+令」、第3水準1−89−59、170−2]※[#「※」は「たけかんむり+省」、第4水準2−83−57、170−2]を持ち玉ひつゝ、折※[#「※」は「二の字点」、第3水準1−2−22、170−2]おつる樹の下露に湿るゝも厭はず三人して川添ひを行くに、水の面は霧立ち罩めて今戸浅草は夢のやうに淡く、川幅も常よりは濶※[#「※」は「二の字点」、第3水準1−2−22、170−3]と見ゆる中を、篝火焚きつゝいと長き筏の流れ下るさまなど、画にも描くべくおもしろし。
枕橋吾妻橋も過ぎて、蔵前通りを南へ、須賀橋といふにさしかゝりける折しも、橋のほとりの交番所にて巡査の誰何するところとなりぬ。唯一ト声、釣りせんとて通るものなりと答へしのみにて、咎めらるゝ事も無く済みけるが、此のあたりの地をば吾が家にて有ちし往時《むかし》もありければ、一ト言にても糺されしことの胸わろきにつけて、よし無き感を起しゝも烏滸がまし。
あづま屋に着きたるに、時は思ひのほかに早くて猶未だ四時には至らず。小糠雨猶止まねど雲脚しきりに断れて西の方の空いよ/\明るく、朝風涼しく吹きて心地よきこと云ふばかり無し。我等の至れるを見て舟子は急がはしく立ち出で、柳橋の上に良久しく佇みて四方《よも》の空のさまを見めぐらす。今日の晴雨を詳《つまびらか》に考ふるなるべしと思へば、天《そら》のさま悪しゝ、舟出し難しなど云はれんには如何せんと、傍観《わきみ》する身の今さら胸轟かる。舟子やがて橋より下り来て、悪しかりし空のさまも悉く変りて今は少しも虞れ無くなりぬ、雨は必ず快く霽るべし、風は必ず好きほどに吹くべし、いざ船に召し玉へと心強く云へば、弟も我も笑みかたぶきて父上とも/″\船に乗る。
纜縄《もやひ》解く、水※[#「※」は「たけかんむり+高」、第3水準1−89−70、170−16]《みさお》撞き張る、早緒取り掛けて櫓を推し初むれば、船は忽ち神田川より大川に出で、両国の橋間を過ぎ、見る目も濶き波の上に一羽の鴎と心長閑に浮びて下る。新大橋を過ぐる折から雨またばら/\と降り来。されど舟子の少しも心にかけぬさまなるに我等も驚かで、火を打《おこ》し湯を沸《たぎ》らしなどす。およそ船の遊びには、貴きも富めるも何くれと無く幇け合ひて働くを習ひとす。若し自ら高ぶり或は又全く心づかずして何事をも為さゞる者あれば、逸り気なる舟子などはこれを達磨さまと云ひて冷笑ふ。手も脚も無きといふ意《こころ》なるべし。また船の※[#「※」は「ふねへん+首」、第4水準2−85−77、171−4]《へさき》の方に我は顔して坐りなどする者をば将監様とよぶ。これは江戸の頃の水の上の司《つかさ》向井将監にかけて云へるにて、将監のやうに坐りて傲り高ぶれるといふ意なるべし。達磨と云はるゝがうしろめたくてにはあらねど、舟を行るのみにても人一人だけの働きなるに、猶飯を炊かせ味噌汁つくるまでの事※[#「※」は「二の字点」、第3水準1−2−22、171−7]を悉く打任せたらんは余りに心無きわざなれば、慣れぬ手もとの覚束無くはあれど何よ彼よと働く。其むかし一人住みしける折の事も思ひ出されて、拙くもをかしきことのみ多し。
風の向き好くなりぬ、帆を揚げんとて、舟子帆をあぐ。永代橋を過ぎて後は四方《よも》のさま全く変りて、眼を障るものも無き海原の眺め、心ものび/\とするやうなり。雨全く収まりて、雲のうしろに朝日昇りたる東の天《そら》の美しさ、また紅に、また紫に、また柑子色に、少しづゝ洩るゝ其光りの此雲彼雲の縁《へり》を焼きたるさま、喩へん方無く鮮やかに眼も眩むばかりなり。雨の後の塵無き天の下にて快き風に船を送らせながら、絵も及びがたき雲の美しさに魂を酔はせつゝ、熱き飯、熱き汁を味はふ此楽しさは、土にのみ脚をつけ居る人の知らぬところなり。幸福《さいはひ》多かるべきかな舟の上の活計《みすぎ》や、日に/\今朝の如くならんには我は櫓をとり舵を操りて、夕の霧、旦《あした》の潮烟りが中に五十年の皮袋を埋め果てんかなと我知らず云ひ出づれば、父上は何とも応へ玉はで唯笑ひ玉ふ、弟はひたすら物食ふ、舟子は聞かざるが如く煙草管《きせる》啣みて空嘯けり。
朝食《あさげ》仕果てゝ心静かに渋茶を喫みつゝ、我は猶胴梁に※[#「※」は「にすい+馬+几」、第4水準2−3−20、172−2]つて限り無き想ひに耽る。詩趣来ること多くして、塵念生ずること無し。声を放つて漁夫の詞を誦して、素髪風に随《まか》せて揚げ遠心雲と与に遊ぶといふに至つて、立つて舞はんと欲しぬ。
今さら云はんはいと烏滸なれど、都は流石に都なるかな。昨夜の雨に大かたの人は望みを絶ちたるなるべければ、今日は釣る人の幾干《いくばく》もあらじと思ひけるに、釣るべきところに来りて見れば釣り舟の数もいと多くして、なか/\数へ得べくもあらぬまでおびたゞしく、秋の木の葉と散り浮きたるさま、喩へば源平屋島の戦ひを画に見る如し。あゝ都なればこそ、都なればこそと、そゞろに都の大なるを感ずるも、あながち我がおろかなるよりのみにはあらで、其処に臨みて其様を見ば何人も起すべき思ひなるべし。
舟子はやがて好しと思ふところに船をとゞめて、※[#「※」は「ふねへん+首」、第4水準2−85−77、172−11]に積み来りし「きゃたつ」を海の中におろす。「きゃたつ」は高さ一間あまりもあるべし、裾広がりなる梯二つを頂にて合せ、海中にはだかり立ちて、其上に人を騎らしむるやう造りたるものなり。およそ青鼠頭魚は物音を嫌ひ、物影の揺ぐをも好まざるまで神経《こゝろ》敏《はや》きものなれば、船にて釣ることも無きには
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング