震は亨る
幸田露伴

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)震《しん》は

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)其|巣《す》を

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「隙のつくり+虎」、225−3]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)たん/\
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 震《しん》は亨《とほ》る。何をか悪《にく》まむやである。彖伝《たんでん》には、震来つて※[#「隙のつくり+虎」、225−3]※[#二の字点、1−2−22]《げきげき》たりとは、恐るれば福を致すなりとある。恐るれば福を致し、或は侮り、或は亢《たかぶ》れば災を致すのは、何事に於ても必ず然様有る可き道理である。古人は決して我等に虚言《うそ》を語つて居らぬ。恐るれば此心はおのづから誠に返る、誠なれば亨り、誠なれば福は至るべきである。そこで震の大象伝《たいしやうでん》にも、君子以て恐懼修省すとある。恐懼修省の工夫が有れば、以て宗廟社稷を守り、以て祭主と為るべきである。震前の一般社会の一切の事象を観るに、実に欠けてゐたものは、恐懼修省の工夫であつた。人※[#二の字点、1−2−22]は甚だしく亢り甚しく侮り、自ら智なりとし、自ら大なりとし、貴重なる経験を軽視し、所謂好んで自ら小智を用ゐて、而も揚※[#二の字点、1−2−22]として誇る、高慢増長慢等、慢心熾盛の外道そのまゝであつた。今に於て大震災の為に、自ら智なりとした其智が風に飛ぶ塵砂より力無きことを示された。自ら大なりとした其大なることが、猛火の前の紙片よりもつまらぬ小なるものであることを悟らされた。こゝに於て恐懼修省することを為せば、実に幸である。今に当つて猶且修省することを知らずして、旧態依然たるものが有らば、それは先に笑ひ、後に号※[#「口+兆」、第4水準2−3−83]《がうてう》する者であらねばならぬ。笑ひ娯み、笑ひ怠るものは、泣き号び泣きくるしむ者となるべきが自然の道理である。鳥《とり》其|巣《す》を焚かれたるが如くなつて、大なる凶を得べきである。其|屋《やね》を豊《おほい》にし、其家に蔀《しとみ》し、よさゝうにすれば、日中に斗だの沫《ばい》だのといふ星を見て、大なる光は遮られ、小さなる光はあらはれ、然るべき人は世にかくれ、つまらぬ者は時めき、そして、其戸を※[#「門<規」、第3水準1−93−57]《うかが》へば闃《げき》として其れ人|无《な》し、三歳|覿《み》えず、凶なりといふやうになつてしまふ。震前の社会のさまは、このやうでは無かつたか。今はもう言つて甲斐なきことだ。たゞ恐懼修省の工夫を為すべきである。懼れて慎み、慎みて誠ならば、修省の道はおのづから目前に在り足下に現はるべきである。修省すれば福来り幸《さいはひ》至るは自然の理である。慢心や笑容を去つて、粛然たる気合《きあひ》になれば、悪いことは生ずべきで無い。
 地震学はまだ幼い学問である。然るに、あれだけの大災に予知が出来無かつたの、測震器なんぞは玩器《おもちや》同様な物であつたのと難ずるのは、余りに没分暁漢《わからずや》の言である。強震大震の多い我邦の如き国に於てこそ地震学は発達すべきである。諸外国より其智識も其器械も歩を進めて、世界学界に貢献すべきである。科学に対して理解を欠き、科学の功の大ならざるを見る時は、忽ちに軽侮漫罵の念を生ずるのは、口惜しい悪風である。科学は吾人の盛り上げ育て上げて、そして立派なものにせねばならぬものである。喩へば吾人の子供を吾人が哀※[#二の字点、1−2−22]劬労して育て上げねばならぬのと同じことである。まして地震学の如きは、まだ幼い学科である。そして黴菌学なんぞの如くに研究者も研究の保護促進をする者も多く無いのである。これに対つて徒らに其功無きを責むるのは、所謂※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]卵に対つて其暁を報ぜざるを責むるの痴である。科学一点張りの崇拝も自分は厭ふが、科学慢侮も実に厭はしい。科学は十分に尊敬し、十分に愛護し、そして其の生長して偉才卓能をあらはすのを衷心より歓迎せねばならぬ。
 明治の末年の大洪水に先だつて、忌はしい謡が行はれた。それは今でも明記して居る人が有らうが、「たんたん、たん/\、田の中で……」といふ謡で、「おッかあも……田螺《たにし》も呆れて蓋をする」といふのであつた。謡の意は婦人もまた裳裾を※[#「寨」の「木」に代えて「衣」、第3水準1−91−84]《かゝ》げて水を渉《わた》るに至つて其影悪むべく、田螺も呆れて蓋をするといふのである。其謡は何人が作つたか知らぬが、童幼皆これを口にするに及んで、俄然として江東大水、家流
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