れ家洗はれ、婦女も裳裾をかゝげて右往左往するに至つたのである。此度の大震大火、男女多く死するの前には、「おれは河原《かはら》の枯芒《かれすゝき》、おなしおまへも枯芒、どうせ二人が此世では花の咲かないかれすゝき」といふ謡が行はれて、童幼これを唱へ、特《こと》に江東には多く唱はれ、或は其曲を口笛などに吹く者もあつた。其歌詞曲譜ともに卑弱哀傷、人をして厭悪の感を懐かしめた。これは活動写真の挿曲から行はれたので、原意は必ずしも此度の惨事を予言したのでも何でも無いが、大震大火が起つて、本所や小梅、到るところ河原の枯芒となつた人の多いに及んで、唱ふ者はパッタリと無くなつたが、回顧すると厭《いや》な感じがする。菩薩蛮《ぼさつばん》行はれて安禄山《あんろくざん》の乱の起つた昔話や、泣面化粧《なきつらげしやう》が行はれて国の運の傾いた類を、支那史上から取出して談ずるまでも無い事だし、又「まひらくつのくれつれ……」の童謡が行はれて、斉明天皇の御代に我軍が大陸で敗績したり、好い方では「かつらぎ寺の前なるや豊浦《とよら》の寺の西なるや、おしとど、としとど、桜井に白璧《しらたま》しづく……」の童謡が行はれて後、光仁天皇が御登極あつて、前代の弊政を改められた事などを引出して語るまでも無いことであるが、忌はしい謡、或は妙な謡などが行はれたり変な風俗が行はれたりなんどした後に大きな事変があると、各人の記臆の中から、忌はしく感じたり異様に思つてゐた事などが頭を擡げて来て、さも/\其事変の前表予告でゞも有つたかの如く復現して来るものである。古の史家などは多くは此を前兆であらうかと取扱つて、そして正史にも野乗にも採記したのであるが、これも亦たしかに幾分か有理なる社会事相解釈の一面である。厭な歌詞や音楽や風俗化粧などは兎に角に無くて欲しいものであらねばならぬ。郷に入つて其謡を聞けば其郷知る可しである。そこで民を牧《やしな》ふ者は古から意をかゝる事にも用ゐたのである。邵子が橋上に杜鵑の声を聞いて天下の形勢を悟つたといふのも、豈直に杜鵑の声を聞いて而る後に悟るところ有りしならんやである。[#地付き](大正十二年十月)
底本:「日本の名随筆 別巻96 大正」作品社
1999(平成11)年2月25日発行
底本の親本:「露伴全集 第三〇巻」岩波書店
1954(昭和29)年7月
入力:加藤恭子
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年1月18日作成
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