雪たたき
幸田露伴

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)焚《や》かれ

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)其|窟《あな》を

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)心が※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》かれて
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   上

 鳥が其巣を焚《や》かれ、獣が其|窟《あな》をくつがえされた時は何様《どう》なる。
 悲しい声も能《よ》くは立てず、うつろな眼は意味無く動くまでで、鳥は篠《ささ》むらや草むらに首を突込み、ただ暁の天《そら》を切ない心に待焦るるであろう。獣は所謂《いわゆる》駭《おどろ》き心になって急に奔《はし》ったり、懼《おそ》れの目を張って疑いの足取り遅くのそのそと歩いたりしながら、何ぞの場合には咬《か》みつこうか、はたきつけようかと、恐ろしい緊張を顎骨《あごぼね》や爪の根に漲《みなぎ》らせることを忘れぬであろう。
 応仁、文明、長享、延徳を歴《へ》て、今は明応の二年十二月の初である。此頃は上《かみ》は大将軍や管領から、下《しも》は庶民に至るまで、哀れな鳥や獣となったものが何程《どれほど》有ったことだったろう。
 此処は当時|明《みん》や朝鮮や南海との公然または秘密の交通貿易の要衝で大富有の地であった泉州堺の、町外れというのでは無いが物静かなところである。
 夕方から零《お》ち出した雪が暖地には稀《めず》らしくしんしんと降って、もう宵の口では無い今もまだ断《き》れ際《ぎわ》にはなりながらはらはらと降っている。片側は広く開けて野菜圃《やさいばたけ》でも続いているのか、其間に折々小さい茅屋《ぼうおく》が点在している。他の片側は立派な丈の高い塀つづき、それに沿うて小溝が廻されている、大家《たいか》の裏側通りである。
 今時分、人一人通ろうようは無い此様《こん》なところの雪の中を、何処を雪が降っているというように、寒いも淋しいも知らぬげに、昂然《こうぜん》として又悠然として田舎の方から歩いて来る者があった。
 こんなところを今頃うろつくのは、哀れな鳥か獣か。小鳥では無いまでも、いずれ暖い洞窟が待っているのでは無い獣でもあるか。
 薄筵《うすむしろ》の一端を寄せ束《つか》ねたのを笠にも簑《みの》にも代えて、頭上から三角なりに被《かぶ》って来たが、今しも天《そら》を仰いで三四歩ゆるりと歩いた後に、いよいよ雪は断れるナと判じたのだろう、
「エーッ」
と、それを道の左の広みの方へかなぐり捨てざまに抛《ほう》って了った。如何にも其様《そん》な悪びれた小汚い物を暫時にせよ被《き》ていたのが癇《かん》に触るので、其物に感謝の代りに怒喝を加えて抛《なげ》棄《す》てて気を宜《よ》くしたのであろう。もっとも初から捨てさせるつもりで何処ぞで呉れ、捨てるつもりで被て来たには相違無いわびしいものであった。
 少し速足になった。雪はもとよりべた雪だった。ト、下駄の歯の間に溜《たま》った雪に足を取られて、ほとほと顛《ころ》びそうになった。が、素捷《すばや》い身のこなし、足の踏立変《ふみたてが》えの巧さで、二三歩泳ぎはしたが、しゃんと踏止まった。
「エーッ」
 今度は自分の不覚を自分で叱る意で毒喝したのである。余程|肚《はら》の中がむしゃくしゃして居て、悪気が噴出したがっていたのであろう。
 叱咤《しった》したとて雪は脱《と》れはしない、益々固くなって歯の間に居しこるばかりだった。そこで、ふと見ると小溝の上に小さな板橋とおぼしいのが渡っているのが見えたので、其板橋の堅さを仮りてと橋の上にかかったが、板橋では無くて、柴橋に置土をした風雅のものだったのが一ト[#「ト」は小書き]踏で覚り知られた。これではいけぬと思うより早く橋を渡り越して其突当りの小門の裾板に下駄を打当てた。乱暴ではあるが構いはしなかった。
「トン、トン、トン」
 蹴《け》着《つ》けるに伴なって雪は巧く脱《ぬ》けて落ちた。左足の方は済んだ。今度は右のをと、左足を少し引いて、又
「トン、トン」
と、蹴つけた。ト、漸《ようや》くに雪のしっかり嵌《はま》り込んだのが脱けた途端に、音も無く門は片開きに開いた。開くにつれて中の雪がほの白く眼に映った。男はさすがにギョッとしない訳にはゆかなかった。
 が、逃げもしなかった、口も利かなかった。身体は其儘《そのまま》、不意に出あっても、心中は早くも立直ったのだ。自分の方では何とすることもせず、先方の出を見るのみに其瞬間は埋められたのであった。然し先方は何のこだわりも無く、身を此方へ近づけると同時に、何の言葉も無く手をさしのべて、男の手を探り取ってやさしく握って中へ引入れんとした。触った其手は暖かであった、なよやかであった。其力はやわらかであった、たしかに鄙《いや》しく無い女の手であった。これには男は又ギョッとした。が、しかし逃げもしなかった、口もきかなかった。
「何んな運にでもぶつかって呉りょう、運というものの面《つら》が見たい。」
というような料簡《りょうけん》が日頃|定《き》まって居るので無ければ斯様《こう》は出来ぬところだが、男は引かるるままに中へ入った。
 女は手ばしこく門を鎖《とざ》した。佳《よ》い締り金物と見えて音も少く、しかもぴったりと厳重に鎖されたようだった。雲の余りの雪は又ちらちらと降って来た。女は門の内側に置いてあった恐ろしい大きな竹の笠、――茶の湯者の露次に使う者を片手で男の上へかざして雪を避けながら、片手は男の手を取って謹《つつし》まやかに導く。庭というでは無い小広い坪の中《うち》を一ト[#「ト」は小書き]筋敷詰めてある石道伝いに進むと、前に当って雪に真黒く大きな建物が見えた。左右は張り出たように、真中は引入れてあるように見えたが、そこは深廂《ふかびさし》になっていて、其突当りは中ノ[#「ノ」は小書き]口とも云うべきところか。其処へかかると中に灯火《ともしび》が無く、外の雪明りは届かぬので、ただ女の手に引かるるのみの真暗闇に立つ身の、男は聊《いささ》か不安を覚えぬでは無かった。
 然し男は「ままよ」の安心で、大戸の中の潜《くぐ》り戸《ど》とおぼしいところを女に従って、ただ只管《ひたすら》に足許《あしもと》を気にしながら入った。女は一寸|復《また》締りをした。少し許《ばか》りの土間を過ぎて、今宵《こよい》の不思議な運を持来らした下駄と別れて上へあがった。女は何時の間に笠を何処へ置いたろう、これに気付いた時は男は又ギョッとして、其のさかしいのに驚いた。板の間を過ぎた。女は一寸男の手を上げた。男は悟った。畳厚さだけ高くなるのだナと。それで躓《つまず》くことなども無しに段々進んだ。物騒な代《よ》の富家大家は、家の内に上り下りを多くしたものであるが、それは勝手知らぬ者の潜入|闖入《ちんにゅう》を不利ならしむる設けであった。
 幾間かを通って遂に物音一ツさせず奥深く進んだ。未だ灯火を見ないが、やがてフーンと好い香がした。沈《じん》では無いが、外国の稀品《きひん》と聞かるる甘いものであった。
 女はここへ坐れと云うように暗示した。そして一寸会釈したように感じられたが、もの静かに去った。男は外国織物と思わるる稍《やや》堅い茵《しとね》の上にむんずと坐った。室隅には炭火が顔は見せねど有りしと知られて、室《へや》はほんのりと暖かであった。
 これだけの家だ。奥にこそ此様《こんな》に人気《ひとけ》無くはしてあれ、表の方には、相応の男たち、腕筋も有り才覚も有る者どもの居らぬ筈は無い。運の面は何様《どん》なつらをして現われて来るものか、と思えば、流石《さすが》に真暗の中に居りながらも、暗中一ぱいに我が眼が見張られて、自然と我が手が我が左の腰に行った。然し忽《たちま》ち思返して、運は何様な面をしておれの前に出て来るか知らぬが、おれは斯様《こん》な面をして運に見せて遣《や》れ、とにったりとした笑い顔をつくった。
 其時|上手《かみて》の室に、忍びやかにはしても、男の感には触れる衣《きぬ》ずれ足音がして、いや、それよりも紅燭《こうしょく》の光がさっと射して来て、前の女とおぼしいのが銀の燭台を手にして出て来たのにつづいて、留木のかおり咽《む》せるばかりの美服の美女が現われて来た。が、互に能《よ》くも見交さぬに、
「アッ」
と前の女は驚いて、燭台を危く投げんばかりに、膝も腰も潰《つい》え砕けて、身を投げ伏して面《おもて》を匿《かく》して終《しま》った。
「にッたり」
と男は笑った。
 主人は流石に主人だけあった。これも驚いて仰反《のけぞ》って倒れんばかりにはなったが、辛く踏止まって、そして踏止まると共に其姿勢で、立ったまま男を憎悪と憤怒との眼で睨《にら》み下した。悍《たけ》しい、峻《さが》しい、冷たい、氷の欠片《かけ》のような厳しい光の眼であった。しかし美しいことは美しい、――悪の美しさの眼であった。
「にッたり」
と男は笑った。曇った鏡が人を映すように男は鈍々《のろのろ》と主人を見上げた。年はまだ三十前、肥《ふと》り肉《じし》の薄皮だち、血色は激したために余計紅いが、白粉《おしろい》を透《とお》して、我邦《わがくに》の人では無いように美しかった。眼鼻、口耳、皆立派で、眉は少し手が入っているらしい、代りに、髪は高貴の身分の人の如くに、綰《わが》ねずに垂れている、其処が傲慢《ごうまん》に見える。
 夜盗の類《たぐい》か、何者か、と眼稜《めかど》強《きつ》く主人が観た男は、額広く鼻高く、上り目の、朶《たぶ》少き耳、鎗《やり》おとがいに硬そうな鬚《ひげ》疎《まば》らに生い、甚だ多き髪を茶筅《ちゃせん》とも無く粗末に異様に短く束《つか》ねて、町人風の身づくりはしたれど更に似合わしからず、脇差一本指したる体《てい》、何とも合点が行かず、痩《や》せて居れども強そうに、今は貧相なれども前には人の上に立てるかとも思われ、盗賊の道の附入りということを現在には為したのなれど、癇癖《かんぺき》強くて正《まさ》しく意地を張りそうにも見え、すべて何とも推量に余る人品であった。その不気味な男が、前に
「にッたり」
と笑ったきり、何時までも顔の様子をかえず、にッたりを木彫《きぼり》にしたような者に「にッたり」と対《むか》っていられて、憎悪も憤怒も次第に裏崩れして了った。実に怒る者は知る可し、笑う者は測るべからず、である。求むる有るものは弱し、恐るるに足らず、求むる無き者は強し、之を如何ともする能《あた》わず、である。不可解は恐怖になり、恐怖は遁逃《とんとう》を思わしめるに至った。で、何も責め立てられるでも無く、強請されるでも無いが、此男の前に居るに堪え無くなって、退《の》こうとした。が、前に泣《なき》臥《ふ》している召使を見ると、そこは女の忽然《こつねん》として憤怒になって、
「コレ」
と、小さい声ではあったが叱るように云った。
「…………」
「…………」
「…………」
であって、短い時間では有ったが、非常に長い時間のように思われて、女は其の無言無物の寂寞《せきばく》の苦に、十万億土を通るというのは斯様いうものででもあるかと苦んでいたので、今、「コレ」と云われると、それが厳しい叱咤であろうと何であろうと、活路を死中に示され、暗夜に灯火を得たが如く、急に涙の顔を挙げて、
「ハイ」
と答えたが、事態の現在を眼にすると、復《また》今更にハラハラと泣いて、
「まことに相済みませぬ疎忽《そこつ》を致しました。御相図《おあいず》と承わり、又御物ごしが彼方《あのかた》様|其儘《そのまま》でござりましたので、……如何様にも私を御成敗下さりまして、……又此方様は、私、身を捨てましても、御引取いただくよう願いまして、然《さ》よう致しますれば……」
と、今まで泣伏していた間に考えていたものと見えて、心有りたけを澱《よど》みなく言立てた。真実はおもてに現われて、うそや飾りで無いことは、其の止途無《とめどな》い涙に知れ、そして此の紛《まぎ》れ込者を何
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