様《どう》して捌《さば》こうか、と一生懸命真剣になって、男の顔を伺った。目鼻立のパラリとした人並以上の器量、純粋の心を未だ世に濁されぬ忠義|一図《いちず》の立派な若い女であった。然し此女の言葉は主人の昨日《きのう》今日《きょう》を明白にして了った。そして又真正面から見た
「にッたり」
の木彫に出会って、これが自分で捌き得る人物だろうかと、大《おおい》に疑懼《ぎく》の念を抱かざるを得なくなり、又今更に艱苦《かんく》にぶつかったのであった。
 主人の憤怒はやや薄らいだらしいが、激情が退くと同時に冷透の批評の湧く余地が生じたか、
「そちが身を捨てましても、と云って、ホホホ、何とするつもりかえ。」
と云って冷笑すると、女は激して、
「イエ、ほんとに身を捨てましても」
とムキになって云ったが、主人は
「いや、それよりも」
と、女を手招きして耳に口を寄せて、何かささやいた。女は其意を得て屏風《びょうぶ》を遶《めぐ》り、奥の方《かた》へ去り、主人は立っても居られず其便に坐した。
 やがて女は何程か知れぬが相当の金銀を奉書を敷いた塗三宝に載せて持て来て男の前に置き、
「私|軽忽《きょうこつ》より誤って御足を留《とど》め、まことに恐れ入りました。些少《さしょう》にはござりますれど、御用を御欠かせ申しましたる御勘弁料差上げ申しまする。何卒《なにとぞ》御納め下されまして、御随意御引取下されまするように。」
と、利口に云廻して指をついて礼をすると、主人も同時に軽く頭《かしら》を下げて挨拶した。
 すると「にッたり」は「にッたり」で無くなった。俄《にわか》に強く衝《つ》き動かされて、ぐらぐらとなったように見えたが、憤怒と悲みとが交り合って、ただ一ツの真面目さになったような、犯し難い真面目さになって、
「ム」
と行詰ったが如くに一ト[#「ト」は小書き]息した。真面目の顔からは手強《てごわ》い威が射した。主人も女も其威に打たれ、何とも測りかねて伏目にならざるを得なかった。蝋燭《ろうそく》の光りにちらついていた金銀などは今誰の心にも無いものになった。主人にも女にも全く解釈の手がかりの無い男だった。
「おのれ等」
と、見だての無い衣裳を着けている男の口からには似合わない尊大な一語が発された。然し二人は圧倒されて愕然《がくぜん》とした、中辺の高さでは有るが澄んで良い声であった。
「揃いも揃って、感心しどころのある奴の。」
 罵《ののし》らるべくもあるところを却《かえ》って褒められて、二人は裸身《はだかみ》の背中を生《なま》蛤《はまぐり》で撫でられたでもあるような変な心持がしたろう。
「これほどの世間の重宝を、手ずからにても取り置きすることか、召使に心ままに出し入れさすること、日頃の大気、又|下《しも》の者を頼みきって疑わぬところ、アア、人の主《しゅ》たるものは然様《そう》無《の》うては叶わぬ、主に取りたいほどの器量よし。……それが世に無くて、此様《こん》なところにある、……」
 二人を相手にしての話では無かった。主は家隷《けらい》を疑い、郎党は主を信ぜぬ今の世に対しての憤懣《ふんまん》と悲痛との慨歎《がいたん》である。此家《このや》の主人はかく云われて、全然意表外のことを聞かされ、へどもどするより外は無かった。
「しかし、此処の器量よしめの。かほどの器量までにおのれを迫《せり》上《あ》げて居おるのも、おのれの私を成そうより始まったろう。エーッ、忌々しい。」
 眼の中より青白い火が飛んで出たかと思われた。主人は訳はわからぬが、其|一閃《いっせん》の光に射られて、おのずと吾《わ》が眼を閉じて了った。
「この女めも、弁口、取りなし、下の者には十二分の出来者。しかも生命《いのち》を捨ててもと云居った、うその無い、あの料簡《りょうけん》分別、アア、立派な、好い侍、かわゆい、忠義の者ではある。人に頼まれたる者は、然様のうては叶わぬ。高禄をくれても家隷《けらい》に有《も》ちたいほどの者ではある。……しかし大すじのことが哀れや分って居らぬ、致方無い、教えの足らぬ世で、忠義の者が忠義でないことをして、忠義と思うて死んで行く。善人と善人とが生命を棄てあって、世を乱している。エーッ忌々しい。」
 全然二人の予期した返答は無かったが、ここに至って、此の紛れ入り者は、何の様な者かということが朧気《おぼろげ》に解って来た。しかし自分達が何様扱われるかは更に測り知られぬので、二人は畏服《いふく》の念の増すに連れ、愈々《いよいよ》底の無い恐怖に陥った。
 男はおもむろに室《へや》の四方を看まわした。屏風《びょうぶ》、衝立《ついたて》、御厨子《みずし》、調度、皆驚くべき奢侈《しゃし》のものばかりであった。床の軸は大きな傅彩《ふさい》の唐絵《からえ》であって、脇棚にはもとより能《よ》くは分らぬが、いずれ唐物と思われる小さな貴げなものなどが飾られて居り、其の最も低い棚には大きな美しい軸盆様のものが横たえられて、其上に、これは倭物《わもの》か何かは知らず、由緒ありげな笛が紫絹を敷いて安置されていた。二人は男の眼の行く方《かた》を見護ったが、男は次第に復「にッたり」に反った。透《す》かさず女は恐る恐る、
「何卒わたくし不調法を御ゆるし下されますよう、如何ようにも御詫《おわび》の次第は致しまする。」
と云うと、案外にも言葉やさしく、
「許してくれる。」
と訳も無く云放った。二人はホッとしたが、途端にまた
「おのれの疎忽は、けも無い事じゃ。ただし此|家《や》の主人《あるじ》はナ」
と云いかけて、一寸口をとどめた。主人と云ったのは此処には居らぬ真《まこと》の主人を云ったことが明らかだったから、二人は今さらに心を跳《おど》らせた。
「実は、我が昵懇《じっこん》のものであるでの。」
と云い出された。二人は大鐘を撞《つ》かれたほどに驚いた。それが虚言《うそ》か真実《まこと》かも分らぬが、これでは何様いう始末になるか全く知れぬので、又|新《あらた》に身内が火になり氷になった。男はそれを見て、「にッたり」を「にたにたにた」にして、
「ハハハ、心配しおるな、主人は今、海の外に居るのでの。安心し居れ。今宵《こよい》の始末を知らそうとて知らそう道は無い。帰って来居る時までは、おのれ等、敵の寄せぬ城に居るも同然じゃ。好きにし居れ、おのれ等。楽まば楽め。人のさまたげはせぬが功徳じゃ。主人が帰るそれまでは、我とおのれ等とは何の関りも無い。帰る。宜かろう。何様じゃ。互に用は無い。勝手にしおれおのれ等。ハハハハハハ、公方《くぼう》が河内《かわち》正覚寺《しょうがくじ》の御陣にあらせられた間、桂の遊女を御相手にしめされて御慰みあったも同じことじゃ、ハハハハハハ。」
と笑った。二人は畳に頭《こうべ》をすりつけて謝した。其|間《ひま》に男は立上って、手早く笛を懐中して了って歩き出した。雪に汚れた革《かわ》足袋《たび》の爪先の痕《あと》は美しい青畳の上に点々と印《いん》されてあった。

   中

 南北朝の頃から堺は開けていた。正平の十九年に此処の道祐《どうゆう》というものの手によって論語が刊出され、其他|文選《もんぜん》等の書が出されたことは、既に民戸の繁栄して文化の豊かな地となっていたことを語っている。山名|氏清《うじきよ》が泉州守護職となり、泉府と称して此処に拠った後、応永の頃には大内義弘が幕府から此地を賜わった。大内は西国の大大名で有った上、四国中国九州諸方から京洛《きょうらく》への要衝の地であったから、政治上交通上経済上に大発達を遂げて愈々《いよいよ》殷賑《いんしん》を加えた。大内は西方智識の所有者であったから歟《か》、堺の住民が外国と交商して其智識を移し得たからである歟、我邦《わがくに》の城は孑然《げつぜん》として町の内、多くは外に在るのを常として、町は何等の防備を有せぬのを例としていたが、堺は町を繞《めぐ》らして濠《ほり》を有し、町の出入口は厳重な木戸木戸を有し、堺全体が支那の城池のような有様を持っていた。乱世に於けるかかる形式は、自然と人民をして自ら治むることの有利にして且喫緊なことを悟らしめた。当時の外国貿易に従事する者は、もとより市中の富有者でもあり、智識も手腕も有り、従って勢力も有り、又多少の武力――と云ってはおかしいが、子分子方、下人|僮僕《どうぼく》の手兵ようの者も有って、勢力を実現し得るのであった。それで其等の勢力が愛郷土的な市民に君臨するようになったか、市民が其等の勢力を中心として結束して自己等の生活を安固幸福にするのを悦《よろこ》んだためであるか、何時となく自治制度様のものが成立つに至って、市内の豪家《ごうか》鉅商《きょしょう》の幾人かの一団に市政を頼むようになった。木戸木戸の権威を保ち、町の騒動や危険事故を防いで安寧を得せしむる必要上から、警察官的権能をもそれに持たせた。民事訴訟の紛紜《ふんうん》、及び余り重大では無い、武士と武士との間に起ったので無い刑事の裁断の権能をもそれに持たせた。公辺からの租税夫役等の賦課其他に対する接衝等をもそれに委《ゆだ》ねたのであった。実際に是《かく》の如き公私の中間者の発生は、栄え行こうとする大きな活気ある町には必要から生じたものであって、しかも猫の眼の様にかわる領主の奉行、――人民をただ納税義務者とのみ見做《みな》して居る位に過ぎぬ戦乱の世の奉行なんどよりは、此の公私中間者の方が、何程か其土地を愛し、其土地の利を図り、其人民に幸福を齎《もた》らすものであったか知れぬのであった。それで足利《あしかが》幕府でも領主でも奉行でも、何時となくこれを認めるようになったのである。此等の人々を当時は、納屋衆、又は納屋貸衆と云い、それが十人を定員とした時は納屋十人衆などと云ったのであった。納屋とは倉庫のことである。交通の便利は未だ十分ならず、商業機関の発達も猶《なお》幼稚であった時に際して、信頼すべき倉庫が、殆んど唯一の此の大商業地に必要で有ったろうことは云うまでも無い。納屋貸衆は多くの信ぜらるる納屋を有していて之を貸し、或は其在庫品に対して何等かの商業上の便宜を与えもしたで有ろうから、勿論世間の為にもなり、自分の為にも利を見たのであろう。夙《つと》に外国貿易に従事した堺の小島太郎左衛門、湯川|宣阿《せんあ》、小島三郎左衛門等は納屋衆の祖先となったのか知れぬ。しかも納屋衆は殆ど皆、朝鮮、明、南海諸地との貿易を営み、大資本を運転して、勿論冒険的なるを厭《いと》わずに、手船《しゅせん》を万里に派し、或は親しく渡航視察の事を敢てするなど、中々一ト[#「ト」は小書き]通りで無い者共で無くては出来ぬことをする人物であるから、縦《たと》い富有の者で無い、丸裸の者にしてからが、其の勇気が逞《たくま》しく、其経営に筋が通り、番頭、手代、船頭其他のしたたか者、荒くれ者を駕馭《がぎょ》して行くだけのことでも相当の人物で無くてはならぬのであったろうから、町の者から尊敬もされ、依信もされ、そして納屋衆と人民とは相持《あいもち》に持合って、堺の町は月に日に栄を増して行ったものであろう。後に至って、天正の頃|呂宋《ルソン》に往来して呂宋助左衛門と云われ、巨富を擁して、美邸を造り、其死後に大安寺となしたる者の如きも亦是れ納屋衆であった。永禄年中三好家の堺を領せる時は、三十六人衆と称し、能登屋《のとや》臙脂屋《べにや》が其|首《しゅ》であった。信長に至っては自家集権を欲するに際して、納屋衆の崛強《くっきょう》を悪《にく》み、之を殺して梟首《きょうしゅ》し、以て人民を恐怖せしめざるを得無かったほどであった。いや、其様《そん》な後の事を説いて納屋衆の堺に於て如何様の者であったかを云うまでも無く、此物語の時の一昨年延徳三年の事であった。大内義弘亡滅の後は堺は細川の家領《けりょう》になったが、其の怜悧《れいり》で、機変を能《よ》く伺うところの、冷酷|険峻《けんしゅん》の、飯綱《いづな》使《つか》い魔法使いと恐れられた細川政元が、其の頼み切った家臣の安富元家を此処の南の荘《しょう》の奉行にしたが、政元の威権と元家
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