の名誉とを以てしても、何様《どう》もいざこざが有って治まらなかったのである。安富は細川の家では大したもので、応仁の恐ろしい大乱の時、敵の山名方の幾《いく》頭《かしら》かの勇将軍が必死になって目ざして打取って辛くも悦んだのは安富之綱であった。又|打死《うちじに》はしたが、相国寺の戦に敵の総帥の山名宗全を脅かして、老体の大入道をして大汗をかいて悪戦させたのは安富喜四郎であった。それほど名の通った安富の家の元家が、管領細川政元を笠に被《き》て出て来ても治まらなかったというのは、何で治まらなかった歟、納屋衆が突張ったからで無くて何であろう。それほどの誇りを有《も》った大商業地、富の地、殷賑の地、海の向うの朝鮮、大明《だいみん》、琉球《りゅうきゅう》から南海の果まで手を伸ばしている大腹中のしたたか者の蟠踞《ばんきょ》して、一種特別の出し風を吹出し、海風を吹入れている地、泣く児と地頭には勝てぬに相違無いが、内々は其|諺《ことわざ》通りに地頭を――戦乱の世の地頭、銭ばかり取りたがる地頭を、飴《あめ》ばかりせびる泣く児のように思っている人民の地、文化は勝《すぐ》れ、学問諸芸|遊伎《ゆうぎ》等までも秀でている地の、其の堺の大小路《おおしょうじ》を南へ、南の荘の立派な屋並の中《うち》の、分けても立派な堂々たる家、納屋衆の中でも頭株の嚥脂屋の奥の、内庭を前にした美しい小室に、火桶《ひおけ》を右にして暖かげに又安泰に坐り込んでいるのは、五十余りの清らな赭《あか》ら顔の、福々しい肥《ふと》り肉《じし》の男、にこやかに
「フム」
とばかりに軽く聴いている。何を些細《ささい》な事という調子である。これに対して下坐に身を伏せて、如何にもかしこまり切っている女は、召使筋の身分の故からというばかりでは無く、恐れと悲しみとにわなわなと顫《ふる》えているのは、今下げた頭《かしら》の元結《もとゆい》の端の真中に小波《さざなみ》を打っているのにも明らかであり、そして訴願の筋の差逼《さしせま》った情に燃えていることと見える。
「…………」
「…………」
 双方とも暫時《しばし》言葉は無かった。屈託無げにはしているが福々爺《ふくふくや》の方は法体《ほったい》同様の大きな艶々した前《まえ》兀頭《はげあたま》の中で何か考えているのだろう、にこやかには繕っているが、其眼はジッと女の下げている頭《かしら》を射透《いすか》すように見守っている。女は自分の申出たことに何の手答のある言葉も無いのに堪えかねたか、やがて少し頭を擡《もた》げた。燐みを乞う切ない眼の潤み、若い女の心の張った時の常の血の上った頬の紅色《くれない》、誰が見てもいじらしいものであった。
「どうぞ、然様《そう》いう訳でございますれば、……の御帰りになりまする前までに、こなた様の御力を以て其品を御取返し下さいまするよう。」
と復《また》一度、心から頭を下げた。そして、
「御帰りの近々に逼って居りますことは、こなた様にも御存知の通り。御帰りになりますれば、日頃|御重愛《ごちょうあい》の品、御手ならしの品とて、しばらく御もてあそび無かった後ゆえ、直にも御心のそれへ行くは必定《ひつじょう》、其時其御秘蔵が見えぬとあっては、御方様の御申訳の無いはもとより、ひいては何の様なことが起ろうも知れませぬ。御方様のきつい御心配も並一通りではござりませぬ。それ故に、御方様の、たっての御願い、生命《いのち》にもかかることと思召《おぼしめ》して、どうぞ吾《わ》が手に戻るようの御計らいをと、……」
 生命にもかかるの一語は低い声ではあったが耳に立たぬわけには行かなかった。
「ナニ、生命にもかかる。」
 最高級の言葉を使ったのを福々爺は一寸|咎《とが》めた迄ではあるが、女に取ってはそれが言葉甲斐の有ったので気がはずむのであろう、やや勢込んで、
「ハイ、そうおッしゃられたのでござりまする。全く彼《あ》の笛が無いとありましては、わたくし共めまでも何の様な……」
「いや、聟《むこ》殿《どの》があれを二《に》の無いものに大事にして居らるるは予《かね》て知ってもおるが、……多寡が一管の古物《こぶつ》じゃまで。ハハハ、何でこのわし程のものの娘の生命《いのち》にかかろう。帰って申せ、わしが詫《わ》びてやる、心配には及ばぬとナ。女は夫を持つと気が小さくなるというが、娘の時のあれは困り者のほどな大気の者であったが、余程聟殿を大事にかけていると見えて、大層女らしくなり居ったナ。好いわ、それも夫婦中が細やかなからじゃ。ハハハハ。」
「…………」
「分らぬか、まだ。よいか、わしが無理借りに此方《こち》へ借りて来て、七ツ下《さが》りの雨と五十からの芸事、とても上りかぬると謗《そし》らるるを関《かま》わず、しきりに吹習うている中《うち》に、人の居らぬ他所《よそ》へ持って出ての帰るさに取落して終《しも》うた、気が付いて探したが、かいくれ見えぬ、相済まぬことをした、と指を突いてわしがあやまったら聟殿は頬を膨《ふく》らしても何様《どう》にもなるまい。よいわ、京へ人を遣って、当りを付けて瘠《やせ》公卿《くげ》の五六軒も尋ね廻らせたら、彼《あの》笛に似つこらしゅうて、あれよりもずんと好い、敦盛《あつもり》が持ったとか誰やらが持ったとかいう名物も何の訳無う金で手に入る。それを代りに与えて一寸あやまる。それで一切は済んで終《しま》う。たとえ聟殿心底は不足にしても、それでも腹なりが治まらぬとは得云うまい。代りに遣る品が立派なものなら、却《かえ》って喜んで恐縮しようぞ。分ったろう。……帰って宜《よ》う云え。」
 話すに明らさまには話せぬ事情を抱いていて、笛の事だけを云ったところを、斯様《こう》すらりと見事に捌《さば》かれて、今更に女は窮して終った。口がききたくても口がきけぬのである。
「…………」
 何と云って宜いか、分らぬのである。しかし何様あっても此《この》儘《まま》に帰ったのでは何の役にも立たぬ。これでは何様あっても帰れぬのである。苧《お》ごけの中に苧は一杯あるのだが、抽出《ひきだ》して宜い糸口が得られぬ苦みである。いや糸口はハッキリして居て、それを引っぱり出しさえずれば埒《らち》は明くのだが、それを引出すことは出来なくて、強いて他の糸口、それは無いに定《き》まっている糸口を見出さなくてはならぬので、何とも為方の無い苦みに心が※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》かれているのである。
「…………」
 頭《かしら》も上げ得ず、声も出し得ず、石のようになっている意外さに、福々爺も遂に自分の会得のゆかぬものが有ることを感じ出した。其感じは次第次第に深くなった。そして是は自分の智慧の箭《や》の的たるべき魔物が其中に在ることは在るに違無いが何処に在るか分らないので、吾《わ》が頼むところの利器の向け処を知らぬ悩みに苦しめられ、そして又今しがた放った箭が明らかに何も無いところに取りっぱなしにされた無効さの屈辱に憤りを覚えた。福々爺もやや福々爺で無くなった。それでも流石《さすが》に尖《とが》り声などは出さず、やさしい気でいじらしい此女を、いたわるように
「そうしたのではまずいのか。」
と問うた。驚くべき処世の修行鍛錬を積んだ者で無くては出ぬ語調だった。女は其の調子に惹《ひ》かれて、それではまずいので、とは云兼ぬるという自意識に強く圧《お》されていたが、思わず知らず
「ハ、ハイ」
と答えると同時に、忍び音《ね》では有るが激しく泣出して終った。苦悩が爆発したのである。
「何も彼《か》も皆わたくしの恐ろしい落度から起りましたので。」
 自ら責めるよりほかは無かったが、自ら責めるばかりで済むことでは無い、という思が直に※[#「匈/月」、997−上−1]《むね》の奥から逼《せま》り上《のぼ》って、
「おかた様のきつい御難儀になりました。若《も》し其の笛を取った男が、笛を証拠にして御帰りなされた御主人様におかた様の上を悪しく申しますれば、証拠のある事ゆえ、抜差しはならず、おかた様は大変なことに御成りなされまする。それで是非共に、あれを、御自由のきく此方《こなた》様《さま》の御手で御取返しを願いに、必死になって出ました訳。わたくしめに死ねとなら、わたくしは此処ででも何処ででも死んでも宜しゅうございます、どうぞ此願の叶えられますよう。」
と、しどろもどろになって、代りの品などが何の役にも立たぬことをいう。潜在している事情の何かは知らず重大なことが感ぜられて、福々爺も今はむずかしい顔になった。
「ハテ」
と卒爾《そつじ》の一句を漏らしたが、後はしばらく無言になった。眼は半眼になって終った。然しまだ苦んだ顔にはならぬ、碁の手でも按《あん》ずるような沈んだのみの顔であった。
「取った男は何様《どん》な男だ。其顔つきは。」
「額広く鼻は高く、きれの長い末上りのきつい目、朶《たぶ》の無いような耳、おとがい細く一体に面長で、上髭《うわひげ》薄く、下鬚《したひげ》疎《まば》らに、身のたけはすらりと高い方で。」
「フム――。……して浪人か町人か。」
「なりは町人でござりましたなれど、小脇差。御発明なおかた様は慥《たしか》に浪人と……」
 問わるるままに女は答えた。それを咎《とが》めるというのではなく、
「娘もそなたもそれほど知ったものに、何で大切《だいじ》な物を取らせた。」
と、おのずから出ずべき疑をおのずからの調子で尋ね問われて、女はギクリと行詰まったが、
「それがわたくしの飛んでも無い過ちからでござりまして。」
と、悪いことは身にかぶって、立切《たてき》って終う。そして又切なさに泣いて終う。福々爺の顔は困惑に陥り、明らかに悶《もだ》えだした。然し、
「よいよい、そなたを責めるのでは無い。訳が分らぬから聞くまでじゃ。では面《おもて》は見知っても、名はもとより知らぬものじゃナ。前々から知った者でも無いナ。」
と責めるでは無いと云いながら責め立てる。
「ハイ。ハイ。取られました其夜初めて見ました者で。」
と答える。
「フム――。そなた等で承知して奪《と》らせよう訳は無いことじゃ。忍び入ることなどは叶わぬようにしてもあるし、又物騒の世なれば、二人三人の押入り者などが来るとも、むざとは物など奪られぬよう、用心の男も飼うてある家じゃ。それじゃに、そなた等、おもては知ったが、知らぬ者に、大事なものを奪られたというのか。フム――。そして何も彼もそなたの恐ろしい落度から起ったというのじゃナ。身の罪に責められて、そなたは生命を取られてもと云い居るのじゃナ。」
「ハイ、あの有難いお方様のために、御役に立つことならば只今でも……」
 真紅《まっか》になった面をあげて、キラリと光った眼に一生懸命の力を現わして老主人の顔を一寸見たが、忽《たちま》ちにして崩《くず》折《お》れ伏した。髪は領元《えりもと》からなだれて、末は乱れた。まったく、今首を取るぞと云われても後へは退《ひ》かぬ態《てい》に見えた。
 心の誠というものは神力《しんりき》のあるものである。此の女の心の誠は老主人の心に響いたのであろう。主人の面には甘さも苦さも無くなって、ただ正しい確乎《しか》とした真面目さばかりになった。それは利害などを離れて、ただ正しい解釈と判断とを求めようとする真剣さの威光の籠《こも》り満ちているものであった。
「して其男が聟殿に何事を申そうという心配があるのか。何事。何事を……」
 的の真ただ中に箭鏃《やじり》のさきは触れた。女は何とすることも出来無かった。其儘《そのまま》に死にでもするように、息を詰めるより外はなかった。
「…………」
「…………」
 恐るべき沈黙はしばし続いた。そして其沈黙はホンノしばしであったに関らず、三阿僧祇劫《さんあそぎごう》の長さでもあるようだった。
「チュッ、チュッ、チュ、チュッ」
 庭樹に飛んで来た雀が二羽三羽、枝《えだ》遷《うつ》りして追随しながら、睦《むつ》ましげに何か物語るように鳴いた。
「告口……証拠……大変なことになる……フム――」
と口の中で独りつぶやいて居た主人は、突然として
「アッ」
と云って
前へ 次へ
全7ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング