処までも物惜みなされて、見す見す一党の利になることをば、御一分の意地によって、丹下右膳が申す旨、御用い無いとかッ。」
 目の色は変った。紫の焔《ほのお》が迸《ほとばし》り出たようだった。怒ったのだ。
「…………」
「然程《さほど》に物惜みなされて、それが何の為になり申す。」
「何の為にもなり申さぬ。」
と憎いほど悠然と明白に云って退けた。右膳は呆れさせられたが、何の為にもなり申さぬと云った言葉は虚言《うそ》では無かったから仕方が無かった。
「何の為にもならぬことに、いやと申し張らるることもござるまい。応と言われれば、日頃の本懐も忽《たちま》ち遂げらるる場合にござる。手段は既に十分にととのい、敵将を追落し敵城を乗取ること、嚢《ふくろ》の物を探るが如くになり居れど、ただ兵粮其他の支えの足らぬため、勝っても勝を保ち難く、奪っても復《また》奪わるべきを慮《おもんぱか》り、それ故に老巧の方々《かたがた》、事を挙ぐるに挙げかね、現に貴殿も日夜此段に苦んで居らるるではござらぬか。然るに、何かは存ぜず、渡りに舟の臙脂屋が申出、御用いあるべしと丹下が申出したは不埒《ふらち》でござろうや。損得利害、明白なる場合に、何を渋らるるか、此の右膳には奇怪《きっかい》にまで存ぜらる。主家に対する忠義の心の、よもや薄い筈の木沢殿ではござるまいが。」
と責むるが如くに云うと、左京の眼からも青い火が出たようだった。
「若輩の分際として、過言にならぬよう物を言われい。忠義薄きに似たりと言わぬばかりの批判は聞く耳持たぬ。損得利害明白なと、其の損得沙汰を心すずしい貴殿までが言わるるよナ。身ぶるいの出るまで癪《しゃく》にさわり申す。そも損得を云おうなら、善悪邪正《ぜんなくじゃしょう》定まらぬ今の世、人の臣となるは損の又損、大だわけ無器量でも人の主《しゅ》となるが得、次いでは世を棄てて坊主になる了休如きが大の得。貴殿やそれがし如きは損得に眼などが開いて居らぬ者。其損得に掛けて武士道――忠義をごったにし、それはそれ、これはこれと、全く別の事を一ツにして、貴殿の思わくに従えとか。ナニ此の木沢左京が主家を思い敵を悪《にく》む心、貴殿に分寸もおくれ居ろうか、無念骨髄に徹して遺恨|已《や》み難ければこそ、此の企も人先きに起したれ。それを利害損得を知らぬとて、奇怪にまで思わるるとナ。それこそ却《かえ》って奇怪至極。貴殿一人が悪いではないが、エーイ、癪に触る一世の姿。」
「訳のよく分らぬことを仰せあるが、右膳申したる旨は御取あげ無いか。」
「…………」
「必ず御用いあることと存じて、大事も既に洩《も》らしたる今、御用いなくば、後へも前《さき》へも、右膳も、臙脂屋も動きが取れ申さぬ。ナ、御返答は……」
「…………」
「主家のためなり、一味のためなり、飽まで御返辞無きに於ては、事すでに逼《せま》ったる今」
と、決然として身を少く開く時、主人の背後《うしろ》の古襖《ふるぶすま》左右へ急に引除《ひきの》けられて、
「慮外御免。」
と胴太き声の、蒼く黄色く肥ったる大きなる立派な顔の持主を先に、どやどやと人々入来りて木沢を取巻くように坐る。臙脂屋早く身《み》退《すさ》りし、丹下は其人を仰ぎ見る、其眼を圧するが如くに見て、
「丹下、けしからぬぞ、若い若い。あやまれあやまれ。後輩の身を以て――。御無礼じゃったぞ。木沢殿に一応、斯様《かよう》に礼謝せい。」
と、でっぷり肥ったる大きな身体を引包む緞子《どんす》の袴《はかま》肩衣《かたぎぬ》、威儀堂々たる身を伏せて深々と色代《しきたい》すれば、其の命拒みがたくて丹下も是非無く、訳は分らぬながら身を平め頭《かしら》を下げた。偉大の男はそれを見て、笑いもせねば褒めもせぬ平然たる顔色《かおつき》。
「よし、よし、それでよし。よくあやまってくれたぞ、丹下。木沢|氏《うじ》、あの通りにござる。卒爾《そつじ》に物を申し出したる咎《とが》、又過言にも聞えかねぬ申しごと、若い者の無邪気の事で。ござる。あやまり入った上は御《お》免《ゆる》し遣わされい。さて又丹下、今一度ただ今のように真心|籠《こ》めて礼を致してノ、自分の申したる旨御用い下されと願え。それがしも共に願うて遣わす、斯《か》くの通り。」
と、小山を倒すが如くに大きなる身を如何にも礼儀正しく木沢の前に伏せれば、丹下も改めて、
「それがしが申したる旨御用い下さるよう、何卒、御願い申しまする木沢殿。」
という。猶《なお》未だ頭を上げなかった男、胴太い声に、
「遊佐《ゆさ》河内守、それがしも同様御願い申す。」
と云い、
「エイ、方々《かたがた》は何をうっかりとして居らるる。敵に下ぐる頭ではござらぬ、味方同士の、兄弟の中ではござらぬか。」
と叱《しっ》すれば、皆々同じく頭を下げて、
「杉原太郎兵衛、御願い申す。」
「斎藤九
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