した。然し、
「よいよい、そなたを責めるのでは無い。訳が分らぬから聞くまでじゃ。では面《おもて》は見知っても、名はもとより知らぬものじゃナ。前々から知った者でも無いナ。」
と責めるでは無いと云いながら責め立てる。
「ハイ。ハイ。取られました其夜初めて見ました者で。」
と答える。
「フム――。そなた等で承知して奪《と》らせよう訳は無いことじゃ。忍び入ることなどは叶わぬようにしてもあるし、又物騒の世なれば、二人三人の押入り者などが来るとも、むざとは物など奪られぬよう、用心の男も飼うてある家じゃ。それじゃに、そなた等、おもては知ったが、知らぬ者に、大事なものを奪られたというのか。フム――。そして何も彼もそなたの恐ろしい落度から起ったというのじゃナ。身の罪に責められて、そなたは生命を取られてもと云い居るのじゃナ。」
「ハイ、あの有難いお方様のために、御役に立つことならば只今でも……」
真紅《まっか》になった面をあげて、キラリと光った眼に一生懸命の力を現わして老主人の顔を一寸見たが、忽《たちま》ちにして崩《くず》折《お》れ伏した。髪は領元《えりもと》からなだれて、末は乱れた。まったく、今首を取るぞと云われても後へは退《ひ》かぬ態《てい》に見えた。
心の誠というものは神力《しんりき》のあるものである。此の女の心の誠は老主人の心に響いたのであろう。主人の面には甘さも苦さも無くなって、ただ正しい確乎《しか》とした真面目さばかりになった。それは利害などを離れて、ただ正しい解釈と判断とを求めようとする真剣さの威光の籠《こも》り満ちているものであった。
「して其男が聟殿に何事を申そうという心配があるのか。何事。何事を……」
的の真ただ中に箭鏃《やじり》のさきは触れた。女は何とすることも出来無かった。其儘《そのまま》に死にでもするように、息を詰めるより外はなかった。
「…………」
「…………」
恐るべき沈黙はしばし続いた。そして其沈黙はホンノしばしであったに関らず、三阿僧祇劫《さんあそぎごう》の長さでもあるようだった。
「チュッ、チュッ、チュ、チュッ」
庭樹に飛んで来た雀が二羽三羽、枝《えだ》遷《うつ》りして追随しながら、睦《むつ》ましげに何か物語るように鳴いた。
「告口……証拠……大変なことになる……フム――」
と口の中で独りつぶやいて居た主人は、突然として
「アッ」
と云って、恐ろしいものにでも打のめされたように大動揺したが、直ちに
「ム」
と脣《くちびる》を結んで自ら堪えた。我を失ったのであった。大努力したのであった。今や満身の勇気を振い起したのであった。勇気は勝った。顔は赤みさした。
「アア」
という一嘆息に、過ぎたことはすべて葬り去って終《しま》って、
「よいわ。子は親を悩ませ苦めるようなことを為し居っても、親は子を何処までも可愛《かわゆ》く思う。それを何様《どう》とも仕ようとは思わぬ。あれはかわゆい、助けてやらねば……」
と、自分から自分を評すように云った。たしかにそれは目の前の女に対《むか》って言ったのでは無かった。然し其調子は如何にもしんみりとしたもので、怜悧《りこう》な此の女が帰って其主人に伝え忘れるべくも無いものであった。
一切の事情は洞察されたのであった。
女の才弁と態度と真情とは、事の第一原因たる吾《わ》が女主人の非行に触れること無く、又此|家《や》の老主人の威厳を冒すことも無く、巧みに一枝《いっし》の笛を取返すことの必要を此家の主人に会得させ、其の力を借《か》ることを乞いて、将《まさ》に其目的を達せんとするに至ったのである。此家の主人の処世の老練と、観照の周密と、洞察力の鋭敏とは、一切を識破して、そして其力を用いて、将に発せんとする不幸の決潰《けっかい》を阻止せんとするのである。しかも其の中でも老主人は人の心を攬《と》ることを忘れはし無かった。
「分った。言う通りにして計らってやる。それにしてもそちは見上げた器量じゃ。過ちは時の魔というものだ、免《ゆる》してやる。口も能《よ》く利ける、気立も好い、感心に忠義ごころも厚い。行末は必ず好い男を見立てて出世させて遣る。」
と附足して、やさしい眼で女を見遣った時は、前の福々爺《ふくふくや》になっていた。女はただ頭《かしら》を下げて無言に恩を謝するのみであった。
「ただナ、惜いことは其時そちが今一ト[#「ト」は小書き]働きして呉れていたら十二分だったものを。其様に深くは、望む方が無理じゃが。あれも其処までは気が廻らなかったろうか。」
「ト仰《おっし》ありまするのは。」
「イヤサ、少し調べれば直《じき》に分ることだから好いようなものの、此方《こなた》は何の何某《なにがし》というものの家と、其男めには悟られて了って居ながら、其男めを此方では、何処の何という者と、大よその見当ぐ
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