帰るさに取落して終《しも》うた、気が付いて探したが、かいくれ見えぬ、相済まぬことをした、と指を突いてわしがあやまったら聟殿は頬を膨《ふく》らしても何様《どう》にもなるまい。よいわ、京へ人を遣って、当りを付けて瘠《やせ》公卿《くげ》の五六軒も尋ね廻らせたら、彼《あの》笛に似つこらしゅうて、あれよりもずんと好い、敦盛《あつもり》が持ったとか誰やらが持ったとかいう名物も何の訳無う金で手に入る。それを代りに与えて一寸あやまる。それで一切は済んで終《しま》う。たとえ聟殿心底は不足にしても、それでも腹なりが治まらぬとは得云うまい。代りに遣る品が立派なものなら、却《かえ》って喜んで恐縮しようぞ。分ったろう。……帰って宜《よ》う云え。」
話すに明らさまには話せぬ事情を抱いていて、笛の事だけを云ったところを、斯様《こう》すらりと見事に捌《さば》かれて、今更に女は窮して終った。口がききたくても口がきけぬのである。
「…………」
何と云って宜いか、分らぬのである。しかし何様あっても此《この》儘《まま》に帰ったのでは何の役にも立たぬ。これでは何様あっても帰れぬのである。苧《お》ごけの中に苧は一杯あるのだが、抽出《ひきだ》して宜い糸口が得られぬ苦みである。いや糸口はハッキリして居て、それを引っぱり出しさえずれば埒《らち》は明くのだが、それを引出すことは出来なくて、強いて他の糸口、それは無いに定《き》まっている糸口を見出さなくてはならぬので、何とも為方の無い苦みに心が※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》かれているのである。
「…………」
頭《かしら》も上げ得ず、声も出し得ず、石のようになっている意外さに、福々爺も遂に自分の会得のゆかぬものが有ることを感じ出した。其感じは次第次第に深くなった。そして是は自分の智慧の箭《や》の的たるべき魔物が其中に在ることは在るに違無いが何処に在るか分らないので、吾《わ》が頼むところの利器の向け処を知らぬ悩みに苦しめられ、そして又今しがた放った箭が明らかに何も無いところに取りっぱなしにされた無効さの屈辱に憤りを覚えた。福々爺もやや福々爺で無くなった。それでも流石《さすが》に尖《とが》り声などは出さず、やさしい気でいじらしい此女を、いたわるように
「そうしたのではまずいのか。」
と問うた。驚くべき処世の修行鍛錬を積んだ者で無くては出ぬ語調だった。女は其の調子に惹《ひ》かれて、それではまずいので、とは云兼ぬるという自意識に強く圧《お》されていたが、思わず知らず
「ハ、ハイ」
と答えると同時に、忍び音《ね》では有るが激しく泣出して終った。苦悩が爆発したのである。
「何も彼《か》も皆わたくしの恐ろしい落度から起りましたので。」
自ら責めるよりほかは無かったが、自ら責めるばかりで済むことでは無い、という思が直に※[#「匈/月」、997−上−1]《むね》の奥から逼《せま》り上《のぼ》って、
「おかた様のきつい御難儀になりました。若《も》し其の笛を取った男が、笛を証拠にして御帰りなされた御主人様におかた様の上を悪しく申しますれば、証拠のある事ゆえ、抜差しはならず、おかた様は大変なことに御成りなされまする。それで是非共に、あれを、御自由のきく此方《こなた》様《さま》の御手で御取返しを願いに、必死になって出ました訳。わたくしめに死ねとなら、わたくしは此処ででも何処ででも死んでも宜しゅうございます、どうぞ此願の叶えられますよう。」
と、しどろもどろになって、代りの品などが何の役にも立たぬことをいう。潜在している事情の何かは知らず重大なことが感ぜられて、福々爺も今はむずかしい顔になった。
「ハテ」
と卒爾《そつじ》の一句を漏らしたが、後はしばらく無言になった。眼は半眼になって終った。然しまだ苦んだ顔にはならぬ、碁の手でも按《あん》ずるような沈んだのみの顔であった。
「取った男は何様《どん》な男だ。其顔つきは。」
「額広く鼻は高く、きれの長い末上りのきつい目、朶《たぶ》の無いような耳、おとがい細く一体に面長で、上髭《うわひげ》薄く、下鬚《したひげ》疎《まば》らに、身のたけはすらりと高い方で。」
「フム――。……して浪人か町人か。」
「なりは町人でござりましたなれど、小脇差。御発明なおかた様は慥《たしか》に浪人と……」
問わるるままに女は答えた。それを咎《とが》めるというのではなく、
「娘もそなたもそれほど知ったものに、何で大切《だいじ》な物を取らせた。」
と、おのずから出ずべき疑をおのずからの調子で尋ね問われて、女はギクリと行詰まったが、
「それがわたくしの飛んでも無い過ちからでござりまして。」
と、悪いことは身にかぶって、立切《たてき》って終う。そして又切なさに泣いて終う。福々爺の顔は困惑に陥り、明らかに悶《もだ》えだ
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