らいも着かぬままに済ませたは、分が悪かったからナ。」
と余談的に云うと、女は急に頭を上げて勇気に充ちた面持で、小声ではあるが、
「イエ、其事でございまするなら、一旦其男を出して帰らせました後、直《ただち》に身づくろい致しまして、低下駄の無提灯《むぢょうちん》、幸いの雪の夜道にポッツリと遠く黒く見えまする男のあとを、悟られぬようつけてまいりました。」
と云いかくるに、老主人は思わず知らず声を出して、
「ナニ、直に其後をつけたというのか。」
「ハイ、悟られぬよう……、見失わぬよう……、もし悟られて逆に捉えられましたならば何と致しましょうか、と随分切ない心遣いをいたしながら、冷たさに足も痛く、寒さに身も凍り縮みましたなれど、一生懸命、とうとう首尾好くつけおおせました。」
主人は感心極まったので身を乗出して、
「オオ。ヤ、えらい奴じゃ。よくやり居った。思いついて出たのもえらいが、つけ果《おお》せたとは、ハテ恐ろしい。女にしては恐ろしいほどの甲斐性者。シテ……」
「イエ何、御方様の御指図でござりましたので、……私はただ私の不調法を償《つぐな》いましょうばっかりに、一生懸命に致しましたことで。それに全く一面の雪の明るさが有ったればこそで、随分遠く遠く見失いかねませぬほど隔たっても、彼方《あなた》の丈高い影は見え、此方は頭上から白《しら》はげた古かつぎを細紐《ほそひも》の胴ゆわいというばかりの身なりから、気取られました様子も無く、巧くゆきましたのでございまする。」
「フム。シテ其男の落着いたところは。」
「塩孔《しおな》の南、歟《か》とおぼえまする、一丁余りばかり離れて、人家少し途絶え、ばらばら松七八本の其のはずれに、大百姓の古家か、何にせよ屋の棟の割合に高い家、それに其姿は蔵《かく》れて見えずなりましたのでございまする。ばらばら松の七八本が動かぬ目処《めど》にございまする。」
「ム、よし。すぐに調べはつく。アア、峻《さが》しい世の中のため、人は皆さかしくなっているとは云え、女子供までがそれほどの事をするか。よし、厭《いや》なことではあるが、乃公《おれ》も何とかして呉れいでは。」
と、強い決意の色を示したが、途端に身の周囲《まわり》を見廻して、手近にあった紙おさえにしてあった小さなものを取って、
「遣る。」
と、女に与えた。当座の褒美と思われた。それは唐《から》の※[#「唆」の「口へん」に代えて「けものへん」、第3水準1−87−75]猊《さんげい》か何かの、黄金色《きん》だの翠色《みどり》だのの美しく綺《いろ》え造られたものだった。畳に置かれた白々《しろじろ》とした紙の上に、小さな宝玩《ほうがん》は其の貴い輝きを煥発《かんぱつ》した。女は其前に平伏《ひれふ》していた。
「チュッ、チュッ、チュ、チュ」
雀の声が一霎時《いちしょうじ》の閑寂の中《うち》に投入れられた。
下
舳《へ》の松村の村はずれ、九本松《くほんまつ》という俚称《りしょう》は辛く残りながら、樹々は老い枯《から》び痩《や》せかじけて将《まさ》に齢《よわい》尽きんとし、或は半ば削《そ》げ、或は倒れかかりて、人の愛護の手に遠ざかれるものの、自然の風残雪虐に堪えかねたる哀しき姿を現わしたる其の端に、昔は立派でも有ったろうが、今は不幸な家運を語る証拠物のように遺っているに過ぎぬというべき一軒屋の、ほかには母屋を離れて立腐れになりたる破れ厩《まや》、屋根の端の斜に地に着きて倒れ潰《つぶ》れたる細長き穀倉などの見ゆるのみの荒廃さ加減は、恐らくは怨霊《おんりょう》屋敷なんど呼ばれて人住まずなった月日が、既に四五年以上も経たものであろう。それでも、だだ広い其の母屋の中《うち》の広座敷の、古畳の寄せ集め敷《じき》、隙間もあれば凸凹《たかひく》もあり、下手の板戸は立附が悪くなって二寸も裾があき、頭があき、上手の襖《ふすま》は引手が脱《ぬ》けて、妖魔《ようま》の眼のように※[#「穴/目、第3水準1−89−50]然《ようぜん》と奥の方《かた》の灰暗《ほのぐら》さを湛《たた》えている其中に、主客の座を分って安らかに対座している二人がある。客はあたたかげな焦茶の小袖《こそで》ふくよかなのを着て、同じ色の少し浅い肩衣《かたぎぬ》の幅細なのと、同じ袴《はかま》。慇懃《いんぎん》なる物ごし、福々しい笑顔。それに引かえて主人《あるじ》は萎《な》え汚れて黒ばめる衣裳を、流石《さすが》に寒げに着てこそは居ないが、身の痩《やせ》の知らるる怒り肩は稜々《りょうりょう》として、巌骨《がんこつ》霜を帯びて屹然《きつぜん》として聳《そび》ゆるが如く、凜《りん》として居丈高に坐った風情は、容易に傍《そば》近く寄り難いありさまである。然し其姿勢にも似ず、顔だけは不思議にもにッたりと笑を含んで、眼にも嶮《けわ》しい光は
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