とはそれだけのことじゃ。」
「何故に、然様《さよう》なさりませねばならぬと固くは御思いになりまする?」
「表裏反覆の甚だしい世じゃ。思うても見られい、公方と管領とが総州を攻められた折は何様《どう》じゃ。総州が我《が》を立てたが故に攻められたのじゃ。然るに細川、山名、一色等は公方管領を送り出して置いて、長陣《ながじん》に退屈させて、桂の遊女を陣中に召さするほどに致し置き、おのれ等ゆるゆると大勢《たいぜい》を組揃え、急に起《た》って四方より取囲み、其謀計|合期《ごうご》したれば、管領は御自害ある。留守の者が急に敵になって、出先の者を攻めたでは出先の者の亡びぬ訳は無い。恐ろしい表裏の世じゃ。ましてそれがしが、御身の妻女はこれこれと、其の良からぬことを告げたところで、証拠無ければただ是|讒言《ざんげん》。女の弁舌に云廻されては、男は却《かえ》ってそれがしをこそ怪しき者に思え、何で吾《わ》が妻女を疑い、他人を信としようぞ。惣《そう》じてかかる場合、たといそれがしが其家譜代の郎党であって、忠義かねて知られたものにせよ、斯様の事を迂闊《うかつ》に云出さば、却って逆に不埒者《ふらちもの》に取って落され、辛き目に逢うは知れた事、世上に其|例《ためし》いくらも有り。又後暗いことするほどの才ある女が、其迷いが募っては何ぞの折に夫を禍するに至ることも世に多きためし。それがしが彼《かの》人《ひと》に証を以て告口せずに置かば、彼人の行末も空恐ろしく、又それがしは悪を助けて善を助けぬ外道魔道の眷属《けんぞく》となる。此の外道魔道の眷属が今の世には充ち満ちている。公方を追落し、管領を殺したも、皆かかる眷属共の為たことである。何事も知らぬ顔して、おのが利得にならぬことは指一ツ動かさず、ぬっぺりと世を送りくさって、みずから手は下さねど、見す見す正道の者の枯れ行き、邪道の者の栄え行くのを見送っている、癇《かん》に触る奴めらが世間一杯。一々たたき斬《き》って呉れたい虫けらども。其虫けらにそれがしがなろうや。もとよりとげとげしい今の此世、それがしが身の分際では、朝起きれば夕までは生命ありとも思わず、夜を睡れば明日《あした》まであたたかにあろうとも思わず、今すぐここに切死にするか、切り殺さるるか、と突詰め突詰めて時を送っている。殊更此頃は進んでも鎗《やり》ぶすまの中に突懸り、猛火の中にも飛入ろう所存に燃えてお
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