た、なよやかであった。其力はやわらかであった、たしかに鄙《いや》しく無い女の手であった。これには男は又ギョッとした。が、しかし逃げもしなかった、口もきかなかった。
「何んな運にでもぶつかって呉りょう、運というものの面《つら》が見たい。」
というような料簡《りょうけん》が日頃|定《き》まって居るので無ければ斯様《こう》は出来ぬところだが、男は引かるるままに中へ入った。
 女は手ばしこく門を鎖《とざ》した。佳《よ》い締り金物と見えて音も少く、しかもぴったりと厳重に鎖されたようだった。雲の余りの雪は又ちらちらと降って来た。女は門の内側に置いてあった恐ろしい大きな竹の笠、――茶の湯者の露次に使う者を片手で男の上へかざして雪を避けながら、片手は男の手を取って謹《つつし》まやかに導く。庭というでは無い小広い坪の中《うち》を一ト[#「ト」は小書き]筋敷詰めてある石道伝いに進むと、前に当って雪に真黒く大きな建物が見えた。左右は張り出たように、真中は引入れてあるように見えたが、そこは深廂《ふかびさし》になっていて、其突当りは中ノ[#「ノ」は小書き]口とも云うべきところか。其処へかかると中に灯火《ともしび》が無く、外の雪明りは届かぬので、ただ女の手に引かるるのみの真暗闇に立つ身の、男は聊《いささ》か不安を覚えぬでは無かった。
 然し男は「ままよ」の安心で、大戸の中の潜《くぐ》り戸《ど》とおぼしいところを女に従って、ただ只管《ひたすら》に足許《あしもと》を気にしながら入った。女は一寸|復《また》締りをした。少し許《ばか》りの土間を過ぎて、今宵《こよい》の不思議な運を持来らした下駄と別れて上へあがった。女は何時の間に笠を何処へ置いたろう、これに気付いた時は男は又ギョッとして、其のさかしいのに驚いた。板の間を過ぎた。女は一寸男の手を上げた。男は悟った。畳厚さだけ高くなるのだナと。それで躓《つまず》くことなども無しに段々進んだ。物騒な代《よ》の富家大家は、家の内に上り下りを多くしたものであるが、それは勝手知らぬ者の潜入|闖入《ちんにゅう》を不利ならしむる設けであった。
 幾間かを通って遂に物音一ツさせず奥深く進んだ。未だ灯火を見ないが、やがてフーンと好い香がした。沈《じん》では無いが、外国の稀品《きひん》と聞かるる甘いものであった。
 女はここへ坐れと云うように暗示した。そして一寸会釈したよう
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