見せて居らぬが、それは此人が此頃何処からか仮りて来て被《かぶ》っている仮面では無いかと疑われる、むしろ無気味なものであった。
座の一隅には矮《ひく》い脚を打った大きな折敷《おしき》に柳樽《やなぎだる》一|荷《か》置かれてあった。客が従者《じゅうしゃ》に吊らせて来て此処へ餉《おく》ったものに相違無い。
突然として何処やらで小さな鈴の音《ね》が聞えた。主人《あるじ》も客も其の音《おと》に耳を立てたというほどのことは無かったが、主人は客が其音を聞いたことを覚り、客も主人が其の音を聞いたことを覚った。客は其音が此|家《や》へ自分の尋ねて来た時、何処からか敏捷《びんしょう》に飛出して来て脚元に戯《じゃ》れついた若い狗《いぬ》の首に着いていた余り善くも鳴らぬ小さな鈴の音であることを知った。随《したが》って新に何人かが此家へ音ずれたことを覚った。しかし召使の百姓上りのよぼよぼ婆《ばば》が入口へ出て何かぼそぼそと云っていたようだったが、帰ったのか入ったのか、それきりで此方へは何も通じは仕無かった。
主人は改めて又にッたりとして、
「ヤ、了休禅坊の御話といい、世間の評話といい、いろいろ面白うござった。今日《きょう》はじめて御尋をいただいたなれど十年の知己の心持が致す。」
「左様仰あって頂き得て、何よりにござる。人と人との気の合うたるは好い、合いたがったるは悪い、と然《さ》る方が仰せられたと承わり居りまするが、まことに自然に、性分の互に反りかえらぬ同士というはなつかしいものでござる。」
「反りかえった同士が西と東とに立分れ、反りかえらぬ同士が西にかたまり、東にかたまり、そして応仁の馬鹿戦が起ったかナ。ハハハハ。」
「イヤ、そればかりでもござりますまい。損得勘定が大きな分け隔てを致しましたろう。」
「其の損得という奴が何時も人間を引廻すのが癪《しゃく》に障る。損得に引廻されぬ者のみであったなら世間はすらりと治まるであろうに。」
「ハハハ。そこに又面白いことがござりまする。先ず世間の七八分までは、得に就かぬものは無いのでござりまするから、得に就いた者が必定に得になりましたなら、世間は疾《と》く治まりまする訳でござりまするが、得を取る筈の者が却《かえ》って損を取り、損をする筈の者が意外に得をしたり致しますことが、得て有るものでござりまするので、二重にも三重にも世間は治まり兼ぬるのではご
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