又は納屋貸衆と云い、それが十人を定員とした時は納屋十人衆などと云ったのであった。納屋とは倉庫のことである。交通の便利は未だ十分ならず、商業機関の発達も猶《なお》幼稚であった時に際して、信頼すべき倉庫が、殆んど唯一の此の大商業地に必要で有ったろうことは云うまでも無い。納屋貸衆は多くの信ぜらるる納屋を有していて之を貸し、或は其在庫品に対して何等かの商業上の便宜を与えもしたで有ろうから、勿論世間の為にもなり、自分の為にも利を見たのであろう。夙《つと》に外国貿易に従事した堺の小島太郎左衛門、湯川|宣阿《せんあ》、小島三郎左衛門等は納屋衆の祖先となったのか知れぬ。しかも納屋衆は殆ど皆、朝鮮、明、南海諸地との貿易を営み、大資本を運転して、勿論冒険的なるを厭《いと》わずに、手船《しゅせん》を万里に派し、或は親しく渡航視察の事を敢てするなど、中々一ト[#「ト」は小書き]通りで無い者共で無くては出来ぬことをする人物であるから、縦《たと》い富有の者で無い、丸裸の者にしてからが、其の勇気が逞《たくま》しく、其経営に筋が通り、番頭、手代、船頭其他のしたたか者、荒くれ者を駕馭《がぎょ》して行くだけのことでも相当の人物で無くてはならぬのであったろうから、町の者から尊敬もされ、依信もされ、そして納屋衆と人民とは相持《あいもち》に持合って、堺の町は月に日に栄を増して行ったものであろう。後に至って、天正の頃|呂宋《ルソン》に往来して呂宋助左衛門と云われ、巨富を擁して、美邸を造り、其死後に大安寺となしたる者の如きも亦是れ納屋衆であった。永禄年中三好家の堺を領せる時は、三十六人衆と称し、能登屋《のとや》臙脂屋《べにや》が其|首《しゅ》であった。信長に至っては自家集権を欲するに際して、納屋衆の崛強《くっきょう》を悪《にく》み、之を殺して梟首《きょうしゅ》し、以て人民を恐怖せしめざるを得無かったほどであった。いや、其様《そん》な後の事を説いて納屋衆の堺に於て如何様の者であったかを云うまでも無く、此物語の時の一昨年延徳三年の事であった。大内義弘亡滅の後は堺は細川の家領《けりょう》になったが、其の怜悧《れいり》で、機変を能《よ》く伺うところの、冷酷|険峻《けんしゅん》の、飯綱《いづな》使《つか》い魔法使いと恐れられた細川政元が、其の頼み切った家臣の安富元家を此処の南の荘《しょう》の奉行にしたが、政元の威権と元家
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