いる。山名|氏清《うじきよ》が泉州守護職となり、泉府と称して此処に拠った後、応永の頃には大内義弘が幕府から此地を賜わった。大内は西国の大大名で有った上、四国中国九州諸方から京洛《きょうらく》への要衝の地であったから、政治上交通上経済上に大発達を遂げて愈々《いよいよ》殷賑《いんしん》を加えた。大内は西方智識の所有者であったから歟《か》、堺の住民が外国と交商して其智識を移し得たからである歟、我邦《わがくに》の城は孑然《げつぜん》として町の内、多くは外に在るのを常として、町は何等の防備を有せぬのを例としていたが、堺は町を繞《めぐ》らして濠《ほり》を有し、町の出入口は厳重な木戸木戸を有し、堺全体が支那の城池のような有様を持っていた。乱世に於けるかかる形式は、自然と人民をして自ら治むることの有利にして且喫緊なことを悟らしめた。当時の外国貿易に従事する者は、もとより市中の富有者でもあり、智識も手腕も有り、従って勢力も有り、又多少の武力――と云ってはおかしいが、子分子方、下人|僮僕《どうぼく》の手兵ようの者も有って、勢力を実現し得るのであった。それで其等の勢力が愛郷土的な市民に君臨するようになったか、市民が其等の勢力を中心として結束して自己等の生活を安固幸福にするのを悦《よろこ》んだためであるか、何時となく自治制度様のものが成立つに至って、市内の豪家《ごうか》鉅商《きょしょう》の幾人かの一団に市政を頼むようになった。木戸木戸の権威を保ち、町の騒動や危険事故を防いで安寧を得せしむる必要上から、警察官的権能をもそれに持たせた。民事訴訟の紛紜《ふんうん》、及び余り重大では無い、武士と武士との間に起ったので無い刑事の裁断の権能をもそれに持たせた。公辺からの租税夫役等の賦課其他に対する接衝等をもそれに委《ゆだ》ねたのであった。実際に是《かく》の如き公私の中間者の発生は、栄え行こうとする大きな活気ある町には必要から生じたものであって、しかも猫の眼の様にかわる領主の奉行、――人民をただ納税義務者とのみ見做《みな》して居る位に過ぎぬ戦乱の世の奉行なんどよりは、此の公私中間者の方が、何程か其土地を愛し、其土地の利を図り、其人民に幸福を齎《もた》らすものであったか知れぬのであった。それで足利《あしかが》幕府でも領主でも奉行でも、何時となくこれを認めるようになったのである。此等の人々を当時は、納屋衆、
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