りと雖、水佳ならざれば遂に佳なるを得ざるなり。豆腐は※[#「さけのとり+囚+皿」、第3水準1−92−88、19−5]醸の事無しと雖、水に因つて体を成すこと猶酒の如し。故に水佳なれば佳品を得、水佳ならざれば佳品を得ず。京の祇園豆腐も蓋し其の水の佳なるによつて名を得るなり。茶に至つては、其味もと至微の間に在り。こゝに於て水に須《ま》つ処のもの甚深甚大なり。東山氏は園内の清泉を用ゐ、豊臣氏は宇治の橋間に汲ましむ。予むしろ豊臣氏に左袒せん。小泉清しと雖、長流或は勝らんなり。堅田の祐菴は水の味を知るに於て精《くは》し。琵琶湖の水、甲処に於て汲む者と乙処に於て汲む者とを弁じて錯《あや》まらざりしといふ。茶博士たるもの、固《まこと》に是の如くなるべき也。支那に於ては西冷の水、天下に名あり。士の特に此を汲むもの、文の特に此を記するもの、甚だ多し。長江の水、おのづから又佳処あり不佳処ありて、而して郭墓《くわくぼ》の辺《あたり》、もつとも佳なるならん。凡そ水味を論ずるの書、唐の張又新《ちやういうしん》、盧仝《ろどう》等より始まりて、宋元明清に及び、好事の士、時に撰著あり。蘇東坡の真君泉を賞し、葛懶真《かつらいしん》の藍家井を揚ぐるが如き、詩詞雑述のこれに及ぶもの、また甚《はなはだ》少からず。我邦に於ては、乗化亭《じようくわてい》の書以外、寥※[#「二の字点」、面区点番号1−2−22、19−15]聞くところ無し。千氏片桐氏等、茶技を以て名あるもの、水を品せざるにあらずと雖、面授して而して筆伝せず。故に其の言散見するありて、其書の完成せる無きならん。
江戸の盛《さかん》なるに当つて、泉井以外、西に玉川の水あり、北に綾瀬の水あり。玉川の水、今猶市民これによりて活く。而れども明澄はこれ有り、真味は乏し。味に精《くはし》き者曰く、水道の水、礬気《ばんき》ありと。綾瀬の水、今は飲むに堪へず、溷濁汚腐、昔日の地志の此を称せしを疑はざるを得ざるなり。江戸川の水、久旱雨無ければ、御熊野の辺、今猶古人の評の我を欺かざるを覚ゆ。然れども上流漸く人家多くして、亦漸く綾瀬のごとくならんとするの虞《おそれ》あり。好事の人の就て汲む者の如き、終《つひ》に往時の一夢たらんのみ。利根川の水、「がまん」甚だ佳なり。がまんは忍耐の義にして、流《ながれ》急に水|駛《はや》く、忍耐せざれば舟を溯《さかのぼ》らしむる能はざるを
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