るまでの間は、扇頭の小景には過ぎざれども、しかもまた岸高く水|蹙《しじま》りて、樹木鬱蒼、幽邃《ゆうすい》閑雅の佳趣なきにあらず。往時《むかし》聖堂文人によりて茗渓《めいけい》と呼ばれたるは即ち此地《ここ》なり。女子師範学校及び高等師範学校の下、教育博物館の所在地は往時の大学ありしところにして、今なほ大成殿その他の建築保存せられ、境内また大概《おおよそ》旧に依りて存せらるゝを以て、塩谷《しおのや》宕陰《とういん》二十勝記のおもかげの残れるかたも少からず。茗渓より下
○稲荷河岸は小船への乗り場揚り場として古き人の能く知るところにして、美倉橋下左衛門橋浅草橋柳橋附近には釣船網船その他の遊船宿多し。神田川落口より下幾許ならずして隅田川には有名なる両国橋架れり。
○両国橋の名は東京を見ぬ人も知らぬはなければ、今さら取り出でゝ語らでもありなん。橋の上流下流にて花火を打揚ぐる川開きの夜の賑ひは、寺門静軒《てらかどせいけん》が記しゝ往時《むかし》も今も異りなし。橋の下流|少許《しばし》にして東に入るの一水あり。これを
○竪川といふ。竪川は一之橋二之橋竪川橋三之橋新辻橋四之橋等の下を経て、大島村小名木
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