水の東京
幸田露伴
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)往時《むかし》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)行く事|僅少《わずか》にして
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)家※[#二の字点、1−2−22]立ちつゞきて
[#(…)]:訓点送り仮名
(例)一[#(ト)]条《すじ》二[#(タ)]条
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)きら/\と
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上野の春の花の賑ひ、王子の秋の紅葉の盛り、陸の東京のおもしろさは説く人多き習ひなれば、今さらおのれは言はでもあらなん。たゞ水の東京に至つては、知るもの言はず、言ふもの知らず、江戸の往時《むかし》より近き頃まで何人《なんびと》もこれを説かぬに似たれば、いで我試みにこれを語らん。さはいへ東京はその地勢河を帯にして海を枕せる都なれば、潮《しお》のさしひきするところ、船の上り下りするところ、一[#(ト)]条《すじ》二[#(タ)]条のことならずして極めて広大繁多なれば、詳しく記し尽さんことは一人の力一枝の筆もて一朝一夕に能くしがたし。草より出でゝ草に入るとは武蔵野の往時《むかし》の月をいひけん、今は八百八町に家※[#二の字点、1−2−22]立ちつゞきて四里四方に門※[#二の字点、1−2−22]相望めば、東京の月は真《まこと》に家の棟より出でゝ家の棟に入るともいふべけれど、また水の東京のいと大なるを思へば、水より出でゝ水に入るともいひつべし。東は三枚洲《さんまいず》の澪標《みおつくし》遥に霞むかたより、満潮の潮に乗りてさし上る月の、西は芝高輪白金の森影淡きあたりに落つるを見ては、誰かは大なるかな水の東京やと叫び呼ばざらん。されば今我が草卒に筆を執つて、斯《かく》の如く大なる水の東京の、上は荒川より下は海に至るまでを記し尽さんとするに当りては、如何で脱漏錯誤のなきを必するを得ん。たゞ大南風に渡船《わたし》のぐらつくをも怖るゝ如き船嫌ひの人※[#二の字点、1−2−22]の、更に水の東京の景色も風情も実利も知らで過ごせるものに、聊《いささ》かこの大都の水上の一般を示さんとするに過ぎねば、もとより水上に詳しき人※[#二の字点、1−2−22]のためにするにはあらず。看《み》るものいたづらにその備はらざるを責むるなかれ。
東京広しといへども水の隅田川に入らずして海に入るものは、赤羽川《あかばねがわ》と汐留堀とのほか幾許《いくばく》もなし。されば東京の水を談《かた》らんには隅田川を挙げて語らんこそ実に便宜多からめ。けだし水の東京におけるの隅田川は、網におけるの綱なり、衣におけるの領《えり》なり。先づ綱を挙ぐれば網の細目はおのづから挙がり、先づ領を挙ぐれば衣の裙裾《すそ》はおのづから挙がるが如く、先づ隅田川を談れば東京の諸流はおのづから談りつくさるべき勢なり。よつて今先づ隅田川より説き起して、後に漸《ようや》くその他の諸流に及ぼして終《つい》に海に説き到るべし。東京の水を説かんとして先づ隅田川を説くは、例へばなほ水経《すいけい》の百川を説かんとして先づ黄河を説くが如し、説述の次第おのづから是《かく》の如くならざるを得ざるのみ。さてまた隅田川を説きながら語次横に逸《そ》れて枝路に入ること多きは、これまた黄序《こうじよ》に言ひけん如く、伊洛《いらく》を談ずるものは必ず熊外《ゆうがい》を連ね、漆沮《しつしよ》を語るものは遂に荊岐《けいぎ》に及ぶ、また自然の偶属《ぐうぞく》にして半離すべからざるものなればなり。
○荒川。隅田川の上流の称なり。隅田川とは隅田《すだ》を流るゝを以《も》て呼ぶことなれば、隅田村以上千住宿あたりを流るゝをば千住川と呼び、それより以上をば荒川と呼ぶ習ひなり。水源《みなもと》は秋の日など隅田堤より遠く西の方《かた》に青み渡りて見ゆる秩父郡の山※[#二の字点、1−2−22]の間にて、大滝村といへるがこの川の最上流に位する人里なれば、それより奥は詳しく知れねど、おもふに甲斐境の高山幽谷より出で来るなるべし。水源地附近のありさまは予が著はしゝ『秩父紀行』、ならびに『新編武蔵風土記』等を読みて知るべし。荒川の東京に近づくは豊島の渡《わたし》あたりよりなり。
○豊島の渡は荒川の川口の方より幾屈折して流れ来りて豊島村と宮城村との間を過ぐる処にあり。豊島村の方より渡りて行く事|僅少《わずか》にして荒川堤に出づ。堤は即ち花の盛りの眺望《ながめ》好き向島堤の続きにして、千住駅を歴《へ》てこゝに至り、なほ遠く川上の北側に連なるものなり。豊島の渡より川はかへつて西南に向つて流れて、やがて
○石神川《しやくしがわ》を収めてまた
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