東に向つて去る。石神川は秋の日の遊びどころとして、錦繍《きんしゆう》の眺め、人をして車を停めて坐《そぞろ》に愛せしむる滝の川村の流れなり。水上は旧石神井村三宝寺の池なれば、正しくは石神井川といふべし。この川|舟楫《しゆうしゆう》の利便は具《そな》へざれども、滝の川村金剛寺の下を流れて後、王子の抄紙場のために幾許かの功を為して荒川に入るなり。古昔《いにしえ》は水の清かりしをもて人の便とするところとなりて、住むもの自ら多かりけむ、この川筋には古き器物を出すこと多し。石神井明神の神体たる石剣の如きもその一なり。
○尾久《おぐ》の渡は荒川小台村と尾久村との間を流るゝ処にあり。この辺りは荒川西より東に流れて、北の岸は卑湿《ひしゆう》の地なるまゝいと荒れたれば、自然の趣きありて、初夏の新蘆《しんろ》栄ゆる頃、晩秋の風の音に力入りて聞ゆる折などは、川面《かわも》の眺めいとをかしく、花紅葉のほかの好き風情あり。鱸《すずき》その他の川魚を漁する人の、豊島の渡よりこゝの渡にかけて千住辺りまでの間に小舟を泛《うか》めて遊ぶも少からず。蚊さへなくば夏の夕の月あかき時なんどは、特《こと》に川中に一杯を酌《く》みて袂に余る涼風に快なる哉を叫ぶべき価ある処なりといふ。川は尾久の渡より下二十町ほどにしてまた一転折して、千住製紙所の前を東に流る。一たび製紙所に入りて直《ただち》にまた本流に合する一|渠《きよ》あり。製紙所前を流れて、やがて大橋に至る。
○千住の大橋は千住駅の南組中組の間にかゝれる橋にして、東京より陸羽に至る街道に当るをもて人馬の往来絶ゆることなし。大橋より川上は小蒸気船の往来なくして、たゞ川船、伝馬、荷足《にたり》、小舟の類の帆を張り艫櫂《ろかい》を使ひて上下するのみなれば、閑静の趣を愛して夏の日の暑熱《あつさ》を川風に忘れんとするの人等は、大橋以西、製紙所の上、川の南西側に榛《はん》の樹立《こだち》の連なれるあたりの樹蔭に船を纜《もや》ひて遊ぶが多し。橋の上下|少《すこし》の間は両岸とも材木問屋多ければ、筏《いかだ》の岸に繋がれぬ日もなし。およそこゝの橋より下は永代橋に至るまで小蒸気船の往来絶ゆる暇なく、石炭の烟《けむり》、機関の響、いと勇ましくも忙《せ》はしく、浮世の人を載せ去り載せ来るなり。橋より下の方、東に向つて川の流るゝこと少許《しばし》にして汽車のための鉄橋の下を過ぎ、右に
○塩入村の茅舎竹籬《ぼうしやちくり》を見、左に蘆葭《ろか》の茂れるを見ながら一折して、終に南に向つて去る。このあたりは河水東西に流れて両岸の地もまた幽寂《ゆうじやく》空疎なれば、三秋月を賞するのところとして最も可なり。およそ月を観て興を惹くは、山におけるより水におけるを勝《すぐ》れりとす。月東山を離るといふの句は詞客《しかく》の套語となれりといへども、実は水に近き楼台《ろうだい》の先づ清輝を看るを得るの多趣なるに如《し》かず。また止水におけるは流水におけるの多趣なるに如かず。池をめぐりて夜もすがらといふの情も妙ならざるにはあらざれど、川上とこの川下や月の友といふの景のおもしろさには及ぶべからず。さてまた同じ流水にても、南北の流れにおけるは東西の流れにおけるのをかしきに如かず。南北の流れにては月の出づるところ東岸に迫られて妙ならねど、東西の流れにては月は直《ただち》に河水の水面よりさし昇るところなれば、見渡す眺めも広※[#二の字点、1−2−22]として、浪に砕くる清き光の白銀を流すが如くいと長く曳きてきら/\と輝くなど、いふにいはれぬ趣きあり。特《こと》にこの辺りは川幅も濶《ひろ》くかつ差し潮の力も利けば、大潮の満ち来る勢に河も膨るゝかと見ゆる折柄、潮に乗りて輾《きし》り出づる玉兎のいと大にして光り花やかなるを瞻《み》る、心もおのづから開くやう覚えて快し。一年の中に夕の潮は秋の潮最も大にして、一月の中に満月の夜の潮はまた最も大に、加之《しかも》月の上る頃はこのあたりにては潮のさし来る勢最も盛なる時なれば、東京広しといへども仲秋の月見にはこのあたりに上越したる好き地あるべくもあらず。人もし試《こころみ》に仲秋船を泛《うか》めてこのあたりに月を賞しなば、必ずや河も平生《ひごろ》の河にあらず月も平生の月にあらざるを覚えて、今までかゝる好風景の地を知らで過ぐしゝを憾《うら》むるならん。古《いにしえ》より文人墨客の輩綾瀬以上に遡らずして、たまたまかゝる地あるを知らざりしかば、詩文に載せられて世に現るゝことなく、以て今日に至りしならん。
○塩入りの渡口は月を観るに好き地の下流に在り。墨田堤の方より川を隔てゝ塩入村を望む眺め、呉春《ごしゆん》なんどの画を見る如く、淡き風景の中に詩趣乏しからず。
○綾瀬川は荒川の一転折して南に向つて流るゝところにて、東より来つて会する一渠の名なり
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