であるから、千差万別が限りなく、変化百端動いて止まざるものであるが、物の方は、これも万物と云つて際限なく数多いものであるが、はるかに静的である。
 例えば、此処に茶碗がある、茶卓がある、土瓶がある、鉄瓶があるといふ如く、此等の物も実に測り知られざる数であるが、兎に角我心以外の物であつて、所謂物質といふ言葉で尽されるもので、その一箇一箇は固定してゐる。勿論、物質そのものも変化せぬではない。水が湯となり氷となるが、人生の事情の多端錯雑、変幻極まりなきに比べてはるかに簡単であり、したがつて物に接するは、事に処するよりも単純であるが、それでも本当に物に接するといふことに徹底するには、大分の知慮分別と、鍛練修業を必要とする。
 然し、物に接する事がよく出来ぬ位では、世に立ち人事百般に処するは、なほ能《よ》く出来ぬ訳であるから、我々は先づ物に接する処から鍛練修業を積んで行かねばならぬ。然るに多くの人は、相手の物そのものが口も利かなければ抵抗もせぬものであるまゝに、勝手にこれに接して、自ら非なりとせぬのが常である。これは詰らぬ事である。小学中学程度の物がよく出来ぬのにそれより高等の事がよく出来よう訳
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