つて、西の方で出来たイカサマ物を東の方の田舎へ埋めて置いて、掘出し党に好い掘出しを仕たつもりで悦ばせて、そして釣鉤へ引掛けるなどといふ者も出て来る。京都出来のものを朝鮮へ埋めて置いて、掘出させた顔で、チャンと釣るなぞといふケレン商売も始まるのである。若し真に掘出しをする者が有れば、それは無頼溌皮の徒で無ければならぬ。又其の掘出物を安く買つて高く売り、其間に利を得る者があれば、それは即ち営業税を払つてゐる商売人で無ければならぬ。商売人は年期を入れ資本を入れ、海千山千の苦労を積んでゐるのである。毎日※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]真剣勝負をするやうな気になつて、長い物、悪い物、二番手、三番手、いづれ結構上※[#二の字点、1−2−22]の物は少い世の中に、一[#(ト)]眼見損へば痛手を負はねばならぬ瀬に立つて、いろ/\さまざまあらゆる骨董相応の値ぶみを間違はず付けて、そして何がしかの口銭を得ようとするのが商売の正しい心掛である。何様して油断も隙もなりはしない。波の中に舟を操つてゐるやうなものである。波瀾重畳が此の商買の常である。そこへ素人が割込んだとて何が出来よう。今此の波瀾重畳険危な骨董世界の有様を想見するに足りる談を一寸示さう。但しいづれも自分が仮設したので無い、出処は有るのである。所謂「出」は判然《はつきり》してゐるので、御所望ならば御明かし申して宜しいのです。ハヽヽ。
 これは二百年近く古い書に見えてゐる談である。京都は堀川に金八といふ聞えた道具屋があつた。此の金八が若い時の事で、親父にも仕込まれ、自分も心の励みの功を積んだので、大分に眼が利いて来て、自分ではもう内※[#二の字点、1−2−22]、仲間の者にもヒケは取らない、立派な一人前の男になつた積りでゐる。実際また何から何までに渡つて、随分に目も届けば気も働いて、もう親父から店を譲られても、取りしきつて一人で遣つて行かれるほどに成つてゐたのである。併し何家《どこ》の老人《としより》も同じ事で、親父は其の老成の大事取りの心から、且は有余る親切の気味から、まだ/\位に思つてゐた事であらう、依然として金八の背後《うしろ》に立つて保護してゐた。
 金八が或時大阪へ下つた。其の途中深草を通ると、道に一軒の古道具屋があつた。そこは商買の事で、一寸一[#(ト)]眼見渡すと、時代蒔絵の結構な鐙《あぶみ》がチラリと眼についた。ハテ好い鐙だナ、と立留つて視ると、如何にも時代といひ、出来といひ、中※[#二の字点、1−2−22]めつたには無い好いものだが、残念なことには一方しか無かつた。揃つて居れば、勿論こんな店にあるべきものでは無い筈だが、それにしても何程《いくら》といふだらうと、価を聞くと、ほんの端金だつた。アヽ、一対なら、おれの腕で売れば慥に三十両にはなるものだが、片方では仕方が無い、少しの金にせよ売物にならぬものを買つたつて何様もならぬと、何とも云へない其鐙の好い味に心は惹かれながら、振返つては見つゝも思ひ捨てゝ買はずに大阪へと下つた。いくら好い物でも商売にならぬものを買はなかつたところは流石に宜かつた。ところが、それから道の程を経て、京橋辺の道具屋に行くと、偶然と云はうか天の引合せと云はうか、たしかに前の鐙と同じ鐙が片方あつた。ン、これが別れ/\て両方後家になつてゐたのだナ、しめた、これを買つて、深草のを買つて、両方合はせれば三十両、と早くも腹の中で笑を含んで、価を問ふと片方の割合には高いことを云つて、これほどの物は片方にせよ稀有のものだからと、中※[#二の字点、1−2−22]廉くない。仕方が無いから割に高いけれども、腹の中に目的があるので、先方の云ひ値で買つて、吾が家へ帰ると直に此話をした、勿論親父に悦ばれるつもりであつた。すると親父は悦ぶどころか大怒りで、「たはけづらめ、慾に気が急いて、鐙の左右にも心を附けずに買ひ居つたナ」と罵られた。金八も馬鹿ぢや無かつた。ハッと気が付いて、「しまつた。向後《きやうこう》気をつけます、御免なさいまし」と叩頭したが、それから「片鐙の金八」といふ渾名を付けられたといふことである。これは、もとより片方しか無かつた鐙を、深草で値を付けさせて置いて、捷径《ちかみち》のまはり道をして同じ其鐙を京橋の他の店へ埋めて置いて金八に掘出させたのだ。心さへ急かねば謀られる訳は無いが、他人に仕て遣られぬ前にといふのと、なまじ前に熟視して居て、テッキリ同じ物だと思つた心の虚といふものとの二ツから、金八ほどの者も右左を調べることを忘れて、一盃食はせられたのである。親父は流石に老功で、後家の鐙を買合せて大きい利を得る、そんな甘い事が有るものでは無いといふところに勘を付けて、直に右左の調べに及ばなかつたナと、紙燭をさし出して慾心の黒闇を破つたところは親父だけあつたのである。勿論深草を尋ねても鐙は無くつて、片鐙の浮名だけが金八の利得になつたのである。昔と今とは違ふが、今だつて信州と名古屋とか、東京と北京とかの間で此手で謀られたなら、慾気満※[#二の字点、1−2−22]の者は一服頂戴せぬとは限るまい。片鎧の金八は一寸おもしろい談だ。
 も一ツ古い談をしようか、これは明末《みんまつ》の人の雑筆に出てゐるので、其の大分に複雑で、そして其談中に出て来る骨董好きの人※[#二の字点、1−2−22]や骨董屋の種※[#二の字点、1−2−22]の性格|風※[#「蚌のつくり」、第3水準1−14−6]《ふうぼう》がおのづと現はれて、且又高貴の品物に搦む愛着や慾念の表裏が如何様に深刻で険危なものであるといふことを語つて居る点で甚だ面白いと感ずるのみならず、骨董といふものに就て一種の淡い省悟《せいご》を発せしめられるやうな気味があるので、自分だけかは知らぬが興味有ることに覚える。談の中に出て来る人※[#二の字点、1−2−22]には名高い人※[#二の字点、1−2−22]も有り、勿論虚構の談では無いと考へられるのである。
 定窯《ていえう》といへば少し骨董好きの人なら誰でも知つてゐる貴い陶器だ。宋の時代に定州で出来たものだから定窯といふのである。詳しく言へば其中にも南定と北定とあつて、南定といふのは宋が金に逐はれて南渡してからのもので、勿論其前の北宋の時、美術天子の徽宗皇帝の政和|宣和《せんな》頃、即ち西暦千百十年頃から二十何年頃までの間に出来た北定の方が貴いのである。又、新定といふものがあるが、それは下つて元の頃に出来たもので、ほんとの定窯では無い。北定の本色は白で、白の※[#「さんずい+幼」、170−下−17]水《いうすゐ》の加はつた工合に、何とも云へぬ面白い味が出て、然程に大したもので無くてさへ人を引付ける。
 ところが、こゝに一つの定窯の宝鼎があつた。それは鼎のことであるから蓋し当時宮庭へでも納めたものであつたらう、精中の精、美中の美で、実に驚くべき神品であつた。はじめ明の成化弘治の頃、朱陽の孫氏が山水山房に蔵してゐた。曲水山房主人孫氏は大富豪で、そして風雅人鑑賞家として知られた孫七峯《そんしちほう》とつゞき合で、七峯は当時の名士であつた楊文襄《やうぶんじやう》、文太史《ぶんたいし》、祝京兆《しゆくけいてう》、唐解元《たうかいげん》、李西涯《りせいがい》等《とう》と朋友《ともだち》で、七峯の居たところの南山で、正徳十五年七峯が蘭亭の古のやうに修禊《しうけい》の会をした時は、唐六如が図をつくり、兼ねて長歌を題した位で、孫氏は単に大富豪だつたばつかりで無かつたのである。そこで其の定窯の鼎の台座には、友人だつた李西涯が篆書《てんしよ》で銘を書いて、鐫《ゑ》りつけた。李西涯の銘だけでも、今日は勿論の事、当時でも珍重したものであつたらう。然様いふスバらしい鼎だつたのである。
 ところが嘉靖《かせい》年間に倭寇に荒されて、大富豪だけに孫氏は種※[#二の字点、1−2−22]の点で損害を蒙つて、次第※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]に家運が傾いた。で、蓄へてゐたところの珍貴な品※[#二の字点、1−2−22]を段※[#二の字点、1−2−22]と手放すやうになつた。鼎は遂に京口の※[#「革+斤」、第3水準1−93−77]尚宝《きしやうはう》の手に渡つた。それから毘陵《びりよう》の唐太常凝菴《たうたいじやうぎようあん》が非常に懇望して、とう/\凝菴の手に入つたが、此の凝菴といふ人は、地位もあり富力もある上に、博雅で、鑒織《かんしき》にも長け、勿論学問も有つた人だつたから、家には非常に多くの優秀な骨董を有して居た。然し孫氏旧蔵の白定窯鼎が来るに及んで、諸の窯器《えうき》は皆其の光輝を失つたほどであつた。そこで天下の窯器を論ずる者は、唐氏凝菴の定鼎を以て、海内《かいだい》第一、天下一品とすることに定まつてしまつた。実際無類絶好の奇宝で有り、そして一見した者と一見もせぬ者とに論無く、衆口|嘖※[#二の字点、1−2−22]《さく/\》として云伝へ聞伝へて羨涎を垂れるところのものであつた。
 こゝに呉門の周丹泉《しうたんせん》といふ人があつた。心慧思霊の非常の英物で、美術骨董にかけては先づ天才的の眼も手も有して居た人であつたが、或時|金※[#「門<昌」、第3水準1−93−51]《きんしやう》から舟に乗り、江右に往く、道に毘陵を経て、唐太常に拝謁を請ひ、そして天下有名の彼の定鼎の一覧を需めた。丹泉の俗物で無いことを知つて交つてゐた唐氏は喜んで引見して、そして其需に応じた。丹泉はしきりに称讃して其鼎をためつすがめつ熟視し、手をもつて大さを度《はか》つたり、ふところ紙に鼎の紋様を模《うつ》したりして、斯様いふ奇品に面した眼福を喜び謝したりして帰つた。そしてまた舟を出して自分の旅路に上つてしまつた。
 それから半歳余り経《たつ》た頃、また周丹泉が唐太常をおとづれた。そして丹泉は意気安閑として、過ぐる日の礼を述べた後、「御秘蔵のと同じやうな白定鼎をそれがしも手に入れました」と云つた。唐太常は吃驚した。天下一品と誇つてゐたものが他所にも有つたといふのだからである。で、「それならば其品を視せて下さい」といふと、丹泉は携へて来てゐたのであるから、異議なく視せた。唐は手に取つて視ると、大きさから、重さから、骨質から、釉色《いうしよく》の工合から、全く吾が家のものと寸分|達《たが》はなかつた。そこで早速自分の所有のを出して見競べて視ると、兄弟が※[#「戀」の「心」に代えて「子」、第4水準2−5−91]生《ふたご》か、いづれをいづれとも言ひかねるほど同じものであつた。自分のの蓋を丹泉の鼎に合せて見ると、しつくりと合する。台座を合せて見ても、又それが為に造つたもののやうにぴたりと合ふ。愈※[#二の字点、1−2−22]驚いた太常は溜息を吐かぬばかりになつて、「して君の此の定鼎は何様いふところからの伝来である」と問うた。すると丹泉は莞爾《につこ》と笑つて、「此の鼎は実は貴家から出たのでござりまする。嘗て貴堂に於て貴鼎を拝見しました時、拙者は其の大小軽重|形貌《けいばう》精神、一切を挙げて拙者の胸中に了※[#二の字点、1−2−22]と会得しました。そこで実は倣《なら》つて之を造りましたので、有り体に申します、貴台を欺くやうなことは致しませぬ」と云つた。丹泉は元来|毎※[#二の字点、1−2−22]《つね/″\》江西の景徳鎮《けいとくちん》へ行つては、古代の窯器の佳品の模製を良工に指図しては作らせて、そして所謂掘出し好きや、比較的低い銭で高い物を買はうとする慾張りや、訳も分らぬ癖に金銭づくで貴い物を得ようとする耳食者流の目をまはさせて居たもので、其の製作は款紋色沢、すべて咄※[#二の字点、1−2−22]として真に逼つたものであつたのである。恐ろしい人も有つたもので、明の頃に既に斯様いふ人が有つたのであるから、今日でも此人の造らせた模品が北定窯だの何だのと云つて何処かの家に什襲珍蔵されて居ぬとは限るまい。扨、周の談を聞いて太常は又今頃に歎服した。で、「それならば此の新鼎は自分に御譲りを願ふ、真品と
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