人なら誰でも知つてゐる貴い陶器だ。宋の時代に定州で出来たものだから定窯といふのである。詳しく言へば其中にも南定と北定とあつて、南定といふのは宋が金に逐はれて南渡してからのもので、勿論其前の北宋の時、美術天子の徽宗皇帝の政和|宣和《せんな》頃、即ち西暦千百十年頃から二十何年頃までの間に出来た北定の方が貴いのである。又、新定といふものがあるが、それは下つて元の頃に出来たもので、ほんとの定窯では無い。北定の本色は白で、白の※[#「さんずい+幼」、170−下−17]水《いうすゐ》の加はつた工合に、何とも云へぬ面白い味が出て、然程に大したもので無くてさへ人を引付ける。
ところが、こゝに一つの定窯の宝鼎があつた。それは鼎のことであるから蓋し当時宮庭へでも納めたものであつたらう、精中の精、美中の美で、実に驚くべき神品であつた。はじめ明の成化弘治の頃、朱陽の孫氏が山水山房に蔵してゐた。曲水山房主人孫氏は大富豪で、そして風雅人鑑賞家として知られた孫七峯《そんしちほう》とつゞき合で、七峯は当時の名士であつた楊文襄《やうぶんじやう》、文太史《ぶんたいし》、祝京兆《しゆくけいてう》、唐解元《たうかいげん》、
前へ
次へ
全43ページ中26ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング