李西涯《りせいがい》等《とう》と朋友《ともだち》で、七峯の居たところの南山で、正徳十五年七峯が蘭亭の古のやうに修禊《しうけい》の会をした時は、唐六如が図をつくり、兼ねて長歌を題した位で、孫氏は単に大富豪だつたばつかりで無かつたのである。そこで其の定窯の鼎の台座には、友人だつた李西涯が篆書《てんしよ》で銘を書いて、鐫《ゑ》りつけた。李西涯の銘だけでも、今日は勿論の事、当時でも珍重したものであつたらう。然様いふスバらしい鼎だつたのである。
ところが嘉靖《かせい》年間に倭寇に荒されて、大富豪だけに孫氏は種※[#二の字点、1−2−22]の点で損害を蒙つて、次第※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]に家運が傾いた。で、蓄へてゐたところの珍貴な品※[#二の字点、1−2−22]を段※[#二の字点、1−2−22]と手放すやうになつた。鼎は遂に京口の※[#「革+斤」、第3水準1−93−77]尚宝《きしやうはう》の手に渡つた。それから毘陵《びりよう》の唐太常凝菴《たうたいじやうぎようあん》が非常に懇望して、とう/\凝菴の手に入つたが、此の凝菴といふ人は、地位もあり富力もある上に、博
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